編集後記集
【メルマガIDN 第051号


■ホロヴィッツ【NO51・040515】
  
クラシックを聞き始めた頃にホロヴィッツのレコードに出会った。1953年から65年の間、ホロヴィッツは演奏活動を行なっていなかった。長年、脅迫神経症と恐怖症に悩んでいたことが原因だったそうである。63年の1月と11月に沈黙を破って2枚のLPがリリースされた。第1集にはショパン(ソナタ2番)・ラフマニノフ・リスト(ホロヴィッツ編のハンガリア狂詩曲19番)、第2集にはシューマン(子供の情景)・スカルラッティ・シューベルト(即興曲作品90の3)がおさめられている。この中で特に印象に残っいるのは、ショパンとシューベルトである。最近買った「HOROWITZ  PLAYS  CHOPIN(米盤)」を久しぶりに聴いてみたが、新鮮である。ショパンのソナタの2番については、ポリーニのCDを聞いている。昨年には横山幸雄を聴きに行ったが、十分な満足を得られない。シューベルトの作品90の3についても、ルプーやブレンデルもいいけど、やはりホロヴィッツ。先入観があるかもしれないが好き。

  『レコード芸術』の04年5月号に、「ホロヴィッツの伝説」が特集として掲載された。ホロヴィッツの晩年のマネージャーだった、ピーター・ゲルブ(現ソニークラシカル社長)が執筆している。ホロヴィッツの晩年の様子をつぶさに知ることが出来て興味深い。記事の見出しには、ホロヴィッツは、20世紀最高のピアニストのひとり、波瀾万丈な生涯、独特のピアノ奏法、自由自在な編曲、特異な慣習、ベールにつつまれた鍵盤の魔術師、等と書かれている。

   ウラディミール・ホロヴィッツは、1904年(1903年説もある)10月1日ロシアのキエフで生まれたピアニスト。1922年にキエフでデビューして大きな成功を収めた。1926年1月にはベルリンにデビューして成功を収め、さらに1928年にはアメリカにもデビュー。トスカニーニの娘ワンダと結婚。1942年にアメリカ市民権を取得。最晩年まで衰えぬ活動をつづけて、1989年11月5日にニューヨークの自宅で、85歳の生涯を閉じた。

  ホロヴィッツは1982年から海外に演奏活動を再開している。ロンドン・パリ・ミラノなど。1983年には日本も訪れている。初来日した時の演奏を評して、吉田秀和さんが「ホロヴィッツはひび割れた骨董品」と言ったが、なぜそのようなことになったか、レコード芸術の記事で事情がよく分かる。ホテル・オークラの最上階の部屋を改造し、占用のキッチンもしつらえ、そこにこもって、大量の薬物を使用し、カンパリを呑みたい放題飲み、山盛りのキャビアを食べ、B級の恐怖映画の中毒にもなった。心身共に最悪の状態だったらしい。
  その後は体調も回復し歳晩年まで比較的順調にコンサートも開催し世界中から好意をもって迎えられている。1986年には61年ぶりに祖国に里帰りを果たし、我が国も訪れ、この時は好評を博している。
 
  1998年にニューヨークに行った時、カーネギーホールに行った。ロビーに出て階段を上がり、バルコニー席の後ろの通路を散策した。そこにはたくさんの演奏家の写真が飾ってあった。その中にホロヴィッツの若い日の写真もあり見入った事を覚えている。ホロヴィッツがアメリカデビューしたのは25歳の時であるが、もう少し後の写真であろうか。

龍のコンサート三昧 アラカルト