編集後記集
【メルマガIDN 第114号 070101】

海を渡った伊万里 【その1】シャーロッテンブルク宮殿(ベルリン)
 メルマガIDNの86号から89号の4回にわたって、「有田と伊万里」について書いた。松岡美術館の展示室の古伊万里関連年表によると、1650年から1757年の108年間に1,233,418品が輸出されており、中国船で運ばれたものも含めると727万品にも及ぶ、と書いてあったこともあり、ヨーロッパの「伊万里」について興味を持っていた。
 2006年にベルリンへ行ったときにシャーロッテンブルク宮殿でその一部を見ることができた。

シャーロッテンブルク宮殿
 中国の景徳鎮窯の磁器生産が17世紀の中ごろに中断することになった時、オランダ連合東インド会社(VOC)は、中国の影響を受けながらも独自の美的世界を展開した、有田で作られた磁器をヨーロッパの王侯貴族に届けるために買い付けた。
 1670年頃には柿右衛門様式が出来上がり、ヨーロッパでも人気を博した。以降、オランダの東洋貿易の隆盛によりアムステルダムに集められた東洋磁器は、ヨーロッパ各国の王室や封建領主の居城を飾るために各地に流れていった。

 ドレスデンの『ツヴィンガー宮殿の磁器コレクション』は有名であるが、私はまだ見る機会に恵まれていない。ベルリンのシャーロッテンブルク宮殿の磁器陳列の間は、そのコレクションにおいてドイツでは最古で最大であると自負している。
 シャーロッテンブルク宮殿は、初代プロイセン国王に即位したフリードリッヒⅠ世が、ヴェルサイユ宮殿に憧れて、妻ゾフィー・シャーロッテのために1695年から8年かけて建てたバロック様式の夏の離宮。

 地下鉄のリヒャルト・ワーグナー・プラッツ駅より歩いて約10分。増築を繰り返したらしく、左右に長い建物であり、磁器陳列の間は左側のブロックに位置している。

 こちらの宮殿は、ツアー形式になっており、自由に見て回ることはできない。女性の案内人が現れて、ツアーを開始するにあたって何語にするかとの相談があった。国別の人数を数えてみるとドイツ語圏の人がもっとも多く、言葉はドイツ語ということになった。幸いなことにここでは、フォルダに入った日本語の案内書を貸してくれた。
 部屋番号と対比させて説明を読みながら説明の女性のあとに従って宮殿の中を見て回る。ツアーの終わりに近いところに目的の磁器陳列の間は位置している。部屋の四周の壁には床から天井までびっしりと磁器で飾られている空間に圧倒される。
説明書を引用してみよう。

磁器陳列の間(絵葉書より) 080910写真を変更

   
磁器陳列の間(絵葉書より)

【磁器陳列の間の説明】
 庭園側の代表的なフランス風の並びの間の終焉は、やはりエオザンダーに拠り懸案されこの域全体の醍醐味である磁器の間です。この間では新興国家プロイセンとフリードリッヒⅠ世の権力、経済力と栄誉が表現されています。
 壁には建築構造的および幾何学的に 2600もの東アジアの磁器が規律良く披露されています。ただし、磁器の間も戦争の甚大な被害を受けたため、ここでご覧になれる磁器は残念ながらオリジナルの磁器ではなく、ほとんどが芸術商などを介して新たに買い揃えたものです。
<天井画についての説明は省略>
 シャーロッテンブルク磁器陳列の間は、そのコレクションにおいてドイツでは最古で最大ですし、18世紀の中国への感嘆を重要な栄光に輝く姿で残し伝えました。

 説明書では「中国」と言っているが、私の見るところ「伊万里」が多数陳列されている。これは「伊万里」ではないかとの質問に、案内者は「そうだ」と答えてくれたが、「中国」か「伊万里」かの区別は定かではないように見受けられた。

 ツアーの仲間の若い女性が「伊万里とは何か?」と英語で質問してきたので、「伊万里と言うのは、日本の西に位置する有田というところで・・・・、私の生まれたところの近くだ」と答えたつもりだが、私のまずしい英語がどこまで伝わったかは怪しいものである。

 出発地点に戻りツアーは終了。説明書の入ったフォルダを返却すように要求された。説明書のコピーがほしいと言ったが、ダメとの返事、「磁器陳列の間」の部分のみでもコピーをとお願いし、説明書の写真に撮っていいかと粘った。フォルダを受け取った女性は、ちょっと待ってと言って扉の奥に消えた。しばらく待っていると、「フォルダの内容とは少し違うが、私が持っているものをあげます、参考になるでしょう。内緒よ」と小声で言って7枚のペーパーをくれた。そしてにっこりと笑顔を残して扉の奥に消えていった。


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