■「縄文的なもの」と「弥生的なもの」 【その2】
~「縄文的」なフルトヴェングラー と
「弥生的」なワルター~
メルマガIDNの第79号(05年7月15日発行)で「縄文的なもの」と「弥生的なもの」と題して下記の3つを例にして書いた。今回は吉田秀和さんの新聞のコラムより、続きを書いてみたい。
<谷川徹三 縄文的原型と弥生的原型 岩波書店 1971年>
谷川は、日本の美の原型を縄文土器と弥生土器に見ることが出来るとし、この両者は美の性格において対照的に異なっている、と言っている。
<高橋富雄 NHK市民大学 地方からの日本史 1987年10月―12月>
高橋は、「顕著な地域的な違い」に着目し、縄文は東北型日本文化(東日本・東北日本を中心とする東型)、弥生は西南型日本文化(西日本・西南日本を基盤とする西型)と、2つの「風土」の類型として区別している。さらに、弥生型西日本が「先進の中央」、縄文型東日本を「未開の地方」と類型している。
<ワルター・グロピウス 丹下健三 「桂」 日本建築における伝統と創造 1960年>
丹下は、「縄文的なもの」について、ヴァイタルなもの、生成的なもの、ギリシャにおけるディオニュソス的、3次元的、動的、生成的と表現している。「弥生的なもの」については、アポロ的、2次元的、静的、形式的と表現している。ここで丹下は、伊勢神宮に対する考えを詳述している。
06年11月1日の朝日(夕刊)の「音楽展望」に「モーツァルトってだれ?」と題して、吉田秀和さんが登場している。「長らくお待たせしました。・・・」と言う書き出しであり、久々らしい。毎週火曜日の朝10時に「名曲の楽しみ」で声を聞いているので、しばらく だとは感じないが、この放送はずっと以前の再放送なのだろうか?
今回の吉田秀和さんのお話の中に、モーツァルトを演奏する「ディオニュソス的」な
フルトヴェングラーと「アポロ的」な
ワルターと記されている。
私は、先の3つの例から、
「縄文的なもの」=「ディオニュソス的」、
「弥生的なもの」=「アポロ的」
と関係づけているので、「縄文的」なフルトヴェングラーであり、「弥生的」なワルターと言うことになり、このように対比してみると二人の大指揮者をよく理解できると思った。
吉田秀和さんは、ニューヨークでワルターが指揮した《フィガロの結婚序曲》聞き、ザルツブルグでフルトヴェングラーが指揮した《ドン・ジョヴァンニ》を聞いたときに感じたことを面白い表現で書いている。
まずワルターについての記述の一部。子ネズミがちょこちょこ動き回るうちだんだん大きくなってゆくような出だしの主題を始め、とんだり跳ねたりの箇所がいくつもあるのに、そんなところまできれいに歌わせながら、「調和のとれた優美な女神の使い」みたいなモーツァルトを聞かせた。
次にフルトヴェングラーについての記述の一部。作者自身がアンダンテと念を押した序曲からして、うんと遅く重々しく起伏の大きいアダージョにギアを切り替えたのを皮切りに随所で人間の業が顔を出す劇にしてしまう。それもある時は爆発的な力で噴出し、あるときは不気味な低音としてうなるように響いてくる。
フルトヴェングラーは、ワルターのアポロ的モーツァルトと反対に、ニーチェのいうデュオニソス的芸術の典型みたいなもの。吉田秀和さんはこのように書いている。
私にとってのワルター感は、コロンビアから出た2500部限定の全集のレコードを聴いたことにより定まった。《35番から41番(除く37番)までの交響曲》、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》、《劇場支配人》序曲、《コジ・ファン・トッテ》序曲、《フィガロ結婚》序曲、《魔笛》序曲、《フリーメーソンのための葬送音楽》などが、8センチほどの厚さのケースに入っており、盤質も極上、別冊ですべての曲の楽譜がついている。
このレコードを何回聴いたかわからない。ワルターについては、ニューヨークフィルとの《未完成》、マーラーの《交響曲第1番 巨人》などがクラシックを聞き始めた若い頃の出会いである。
フルトヴェングラーについては、ベートーベンの《英雄 ウィーンフィル 1952年録音》と《第7番 ウィーンフィル 1950年録音 》、バイロイトの《第九
1951年録音》で確立された感が強い。フルトヴェングラーについては、いろいろな言葉で表現できるが、「縄文的」な演奏をする指揮者であるというのが最もぴったりするのを今回教えてもらった。
物事を二つの類型で強引に区分するのは乱暴であるかもしれない。「縄文的なもの」の中にも「弥生的なもの」が潜んでおり、逆のことも言えるであろう。しかし、二つの事象を対比させて見ることにより、その本質をより理解できると思い、「縄文的なもの」と「弥生的なもの」を気にしており、吉田秀和さんの「音楽展望」が目にとまった。
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