編集後記集
【メルマガIDN 第116号 070201】

■「縄文的なもの」と「弥生的なもの」 【その3】
     ~梅原 猛の『楕円文化論』と「縄文と弥生」~
プロローグ

 昨年読んだ梅原猛の2つの新聞の記事をもとに「縄文的なもの」と「弥生的なもの」の考え方の例を紹介しようと考えたときに、ずっと以前に読んだ梅原猛の本を思い出した。我が家の書棚を探したが、ほこりをかぶっていた何冊かの彼の著書の中に、目的のものを見つけることができなかった。ネットで調べてみると、「日本とは何なのか NHKブックス 1990年)であることがわかった。通りがかりに寄った何軒かの書店では、この本を見つけることができなかった。丸善へ行って検索システムで見つけた。しかし、所定のところにはなく、お店の人も探しあぐねたが、やっと見つけて入手することができた。
 
日本とは何なのか
 この本は、梅原 猛の編著で、本人の執筆は最初の20ページほどである。しかし、この中に彼の日本文化論が凝縮していると言っても良い。書かれている内容を紹介しよう。
 
「縄文的なもの」についての記述は、
 森の文化、縄文文化が日本の文化の一つの核を構成している、周辺(中心に対して)、関東(関西に対して)、平等を重んじる文化、変わりにくいものは縄文文化の影響が強い、人間と自然を一体として捉える世界観、等々。

「弥生的なもの」についての記述は、
田の文化、中心、関西、変わりやすいもの、弥生人がやってきて縄文人を征服、そこに国家をつくると階級あるいは身分が生まれる、技術とか教養としての文化と政治組織のようなものは弥生文化の影響が強い、等々。
 
 梅原猛は、『日本文化を、森の文化というべき縄文文化と、田の文化というべき弥生文化とが、それぞれ対立しながら調和している二つの焦点を持つ、楕円文化と考えざるを得ない』として、この『楕円文化論』は今後の日本文化を考えるうえでもある程度有効性を持つと思う、と結論付けている。
 
反時代的密語(06年3月21日)
 朝日に2年間続いた反時代的密語はこの回が最終回。「反時代的」はニーチェの「反時代的考察」から学び、「密語」は空海から学んだという。
 この前日に81歳の誕生日を迎えた梅原は、若き日に真理だけを頼りにして孤独に闘かったことを思い出しながら(注)、日本語の起源の問題について語っている。この中に「縄文人」と「弥生人」のことが書かれていたので、切抜きを保存していた。
  (注)若き日に小林秀雄などに容赦ない批判を加えたことを言っている

 内容は、「日本とは何なのか」と共通することが多い。日本人が土着の縄文人と渡来した弥生人の混血によって形成されたことは自然人類学的に明らかだと言い、ここでは言語に着目している。

 日本の場合は、渡来した弥生人に対して土着の縄文人のほうが数において多く、土着の言語、すなわちアイヌ語に強く残る縄文語が主体となったと思われる。しかし渡来人が支配者になったので、文法は渡来人が使っていたと思われる古代朝鮮語的になったのではないかと考えざるを得ない、 と言っている。

 最後に、人類を末永く生き永がらえさせるためには、農業時代の思想からはじめるのではなく、狩猟採集時代までさかのぼって考える哲学が必要だと提言している。
 
白川静さんを悼む 漢字に見た「神の世界」 (06年11月2日)
 96歳でなくなった白川静の追悼文の中に「ディオニソス的」と、「アポロン的」という言葉が出てくる。前回に、吉田秀和さんの文章を紹介した中での、モーツァルトを演奏する「ディオニュソス的」なフルトヴェングラーと「アポロ的」なワルターと、同じ意味で使われている。前者が「縄文的なもの」であり、後者が「弥生的なもの」である。

 梅原猛は、「ニーチェはそれまで合理的な理性によって支配されていたと考えられていたギリシャ世界をアポロン的と決めつけ、ギリシャにはディオニソス的という凶暴な情熱の世界があることを示した」ことを例にとり、白川氏は中国世界の解釈を一変させたと記している。
 いくつかを抜き出してみる。
「漢字というものの成り立ちを分析することによって、漢字が生まれた殷という時代の精神を明らかにする研究であった」、「白川氏によれば、漢字の中には神といってよいか鬼といってよいか霊といってよいか、そういうものへの深い恐れの精神が宿っていると言う」、「中国の合理主義は周の世界に生まれ、それが儒教に受け継がれたのであるが、その奥には非合理というべき殷の世界が隠れていて、それが中国文明にひそかに影響を与え続けていたという」。
 中国世界を漢字の研究をとおして、「ディオニソス的」な殷と、「アポロン的」な周を対比させて示している。
 
エピローグ
 梅原猛の「縄文的なもの」と「弥生的なもの」にかかわる3つの例を示した。梅原は、十数年前に『楕円文化論』として、二つの融合に着目し、「縄文的なもの」の今日的重要性について述べている。
 一方、06年の2つの記事の中では、二つを対比させながら「縄文的なもの」の大切さを述べている。

 今回までに、下記に示すように「パラダイム」に関することも含めると5回、関連することを書いた。今回のニーチェや白川静についてよくわかって書いているのではないことをお断りしておく。パラダイムについて、特に「縄文的な」、「弥生的な」ものの見方に興味を持っており、今後も注目してゆきたいと思う。【生部】

《パラダイム》
【その1】パラダイムシフト 【NO37・03/10/15】
【その2】パラダイムの融合(ヒュージョン) 【NO38・03/11/01】
《「縄文的なもの」と「弥生的なもの」》
【その1】谷川徹三・高橋富雄・丹下健三の「縄文と弥生」 【NO79・05/07/15】
【その2】吉田秀和の「縄文的」なフルトヴェングラーと 「弥生的」なワルター 【NO115・07/01/15】
【その3】梅原猛の『楕円文化論』と「縄文と弥生」 【NO116・07/02/01】

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