■創流90周年のイベントに参加した
お花を始めたのは、会社を辞める1年前の2000年春のこと。木曜日の夕方になると、私のオフィスの廊下にお花の束が並んだ。最初は気に留めなかったが、華道部が部活で使用する花であることがわかった。半ば冗談で、私の部署に居た華道部の女性に話しかけたことから部のメンバーに入れてもらうことになった。先生は佐伯雅水先生。何も知らずに教わっていたが、後に認定証授与式に行ったときに、佐伯先生が、来賓の方や会長のテーブルに座っておられたのを見て、この花道会の大御所であることを知った。
お花を始めて1年経ったとき、佐伯雅水先生より「3級を申請するので、華名を決めてください」と言われてとまどった。しばらく考えて「龍水」にしてほしいとお願いし、了承していただいた。私の流派では、「水」を使うことになっている。私の場合は名前が「圭助」なので、通常は「圭水」ということにするのが順当である。「龍」という名前にしたのは、私の生まれが辰年というのが主な理由だが、ハンドルネームに「龍」を使っていたこともある。
龍水はその後真面目に稽古に励み、2001年に定年退職した後も部活動に参加させてもらい、佐伯先生の教えを乞うた。2002年4月に「師範」の資格をいただいた。その後も月に1回、本部の研究会に精勤している。また千葉地区で毎年1回開催される「千葉ブロック華展」にも4回参加して、たくさんの先輩達(ほとんどが私より若い女性)との知己を得た。
途中の幾つかの資格を経て、2006年4月に椿山荘で開催された認定式で、「正教授」の認定証を井上格水会長よりいただいた。正教授になると、正会員として処遇され、総会などへも出席することになる。
しかし、この先は長い。正教授を終えるのに1年半を要し、この先14年半に及ぶ階段が控えている。生きているかわからない時間を考える事はやめにして、楽しみながら稽古に励んでいる。
今年はじめの研究会の席で、創流90周年の式典と記念いけばな展が実施されることを知った。椿山荘で開催されるいけばな展に出展するようにとのお達しがあった。
これまで私の花道会の沿革などにあまり関心がなかったが、開催のパンフレットを見て、初めて過去のことを知った。
1917年に初代家元が創始し、文化親善使節としてアメリカなどの海外に派遣されたこと、国内や海外にも支部を創設、初代家元が没したあと、2世家元が大学教授として米国に永住した為に、社中団結を計り会員制として発足してきたことを知る。1977年に文化庁より社団法人として認可を受け、その後は家元制をとらずに、代々の会長のもとに会を運営している。
4月の研究会で、椿山荘の本会場を想定した活け方の練習を行い、活けこみの当日6月8日を迎えた。8日の午前中には、はずせない用を済まし、午後一番に人形町の花屋さんへ行った。部活の花を納入していた花屋さんで、その後も花展などに出展するときに必ず求めに行っている。花器は準備していたが、花材についてはぶっつけ本番である。
椿山荘の展示会場に着いてみると、足の踏み場もない状態で大勢が作品に取り組んでおり熱気むんむん。そんな中で何とか仕上げて、担当の先生のチェックを受けてその日の仕事を終了。
翌9日の朝にはテープカットなどのセレモニーが行われたが、私は早朝より、川越会場へ行き、アドバイザー講座の初日の講師を担当。夕方の6時半に始まる記念祝賀会に駆けつけて参加。終了後、椿山荘の庭の蛍を見て、疲れ気味で帰宅。
翌10日の午前中は受付の当番。午後は、千葉ブロックのホームページに使う写真を撮ることなどで時間をつぶし、5時より揚げ花。この3日間は忙しかった。
会社の部活から始まって、千葉ブロックの仲間に入れてもらい、本部の研究会に通い、この間、田端駅の常設の花を活けに行ったり、靖国神社の奉花などを行いながら、この花道会にかかわってきた。今回の創流90周年のイベントに参加して、やっとこの花道会の一員になったような感じがする。
9月のはじめに開催されるスペインのソルソーナ市(バロセロナの北西125kmのところにある町)で開催される、フェスタ・マジョール(文化祭)への参加に向けて、千葉ブロックの仲間たちを中心に準備中の作業が佳境に入っている。当初は小集団での参加を予想していたが、目的を持った海外旅行に意義を感じて、仕事で忙しい人達も滞在期間を短くするなどして、たくさんの方より参加表明があった。本部からも、新会長と共に偉い先生がも参加してくれることになった。準備することは山ほどあり、これから暑い夏を過ごすことになる。【生部】