■編集後記 スペイン紀行2007 【その5】サグラダ・ファミリア教会で「今井兼次の世界」の展示を見た
ソルソーナで花展開催後に予定した小旅行に対して、サグラダ・ファミリア教会へ行きたいという希望が多かった。花展の忙しいスケジュールの中で、虔之介さんはホテルの会議室を借りて、サグラダ・ファミリア教会の歴史や最新情報について1時間半ほどの講義をしてくれた。
2004年にはピレネーからの帰りに、バスで教会の周りを一周し、生誕(降誕)の門の前でバスを2~3分止めて車窓から見ることしか出来なかった。今回は内部に足を踏み入れ、たくさんのものを見て、多くの強烈な印象があった。その中で2つについて記す。
・二つの様式の強烈な対比
南のファサードを構成する生誕(降誕)の門はクラッシックな様式であり、観光写真の定番として長いこと使われてきた。現在は北のファサードを構成する受難の門が出来上がり、モダンな様式が目を引く。
日本人で有名になった彫刻家の外尾悦郎氏はクラッシックな様式、モダンな様式はスビラックスにまかされている。
正面(西面)の栄光の門はこれから作られることになっているが、様式についてはまだわからないとのこと。
・奔放な造形の中に隠された整然としたルール
この教会の大きさは、幅80m、長さ110m、高さ170mでほぼサッカー場の大きさに相当する。形状は5身廊方式(両側にそれぞれ2つの回廊がある)である。この教会には一番外側に回廊があるが、これは5身廊のさらに外側にあり、別の意味を持っている。
今回売店で購入した『贖罪の教会 サグラダ・ファミリア 2007年初版』に掲載されている平面図で見ると、外観からは複雑に見えるが、建物の基本形はしっかりとモジュールにのっとって計画されていることがわかる。
北のスビラックスによる受難の門のファサードの彫刻を見ながら建物の中に入り、内陣の空間を見て、南の生誕の門の前に出る。3年前にバスの窓から見たファサードを今回はすぐ近くで堪能し、西の栄光の門の下にある展示スペースに移動する。
展示スペースの一角に「今井兼次の世界」という看板を見つけた。今井兼次は、私が学生時代にガウディについて熱心に講義をしてくれた偉い先生。今井兼次(1895-1987)は建築家であり、建築科の教授として48年にわたり教鞭を執った。56年に日本ガウディ友の会を設立し会長になっている。ガウディの作品の価値や魅力を見出し、日本にガウディを最初に紹介した人。
展示会場は、パネルで構成され、パネルには、スペイン語と英語と日本語で説明が書かれていた。
パネル1では、今井兼次が最初にサグラダ・ファミリア教会を訪れたときのことが紹介されている。1926年に東京地下鉄同(営団地下鉄の前身)は、今井兼次をヨーロッパの地下鉄事情の視察に派遣した。パネル1に紹介されている今井兼次の日記に書かれている文章は、彼のガウディとサグラダ・ファミリア教会への第1印象として興味深い。
《12月27日の印象:細雨の日、数人の工人は森閑とした現場の一隅で不思議な型を比較的柔軟な花崗岩に刻んでいた。(中略)ただ一人の彫刻家が鈍い光が投げられている主なき哀愁の場所で高さ二丈に近き大寺院の模型を前にして各部の模型製作に耽っていた。(中略)広場には六尺ともあろうと思われる貝殻や蛙、さては尖塔の頂に著ける黄金色硝子モザイクの球塊が雑草の陰にほうり出されたままになっている、自分は半ば原世紀の怪獣の仲間入りをしてしまった様なかたちで広場を歩いた。(中略)そこには何ら平面部も垂直な表面も幾何学的なアウトラインもないからこの建築体を図面に描出すことはほとんど困難なことである。(後略)》
パネル2では、このときのことを《今井兼次を変えた15時間25分》として紹介している。ガウディは1926年6月10日になくなっており、今井兼次は3~4ヶ月前にストリートカーに轢かれてガウディが死んだことを聞いた、と書いている。
パネル3では《アントニオ・ガウディの俤に従って》と題して、1957年にカタルーニャのガウディ友の会との交流が始まったことなどが紹介されている。
パネル4では《再会》と題して、ガウディ友の会設立10周年の記念の1963年6月にバロセロナを訪れた時のことが紹介され、ミラ邸(カサ・ミラ)から見たサグラダ・ファミリアのスケッチなどが掲載されている。また、ガウディに感激し始めたのが1922年、実際に勉強したくなったのは1926年の訪問時に自分自身でみた彼の作品等から、と書かれている。
パネル5では《今井兼次の代表作》と題して、日本26聖人殉教記念館と教会(長崎58-63)の写真とともに、「私のこの仕事の背後でいつでもガウディは私を凝視し励ましてくれた」という今井兼次の言葉が紹介されている。