■編集後記 「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」展を観る
横山大観は、明治、大正、昭和の3代にわたり、画壇の第一人者として活躍した国民的画家であり、日本と東洋の伝統を継承しながら、西洋を取り入れ融合させ優雅で大胆な独自の世界を展開した。
2007年1月から3月にかけて東京国立近代美術館で横山大観の長編絵巻「生々流転」が特別公開された。ここでは40メートルにわたる長編絵巻が一挙展示された。
一年後の2008年1月2日から3月4日まで国立新美術館で《没後50年
横山大観―新たなる伝説へ》が開催されている。国立新美術館では、「生々流転」はもちろん、大観の代表作も多く展示されている。国立新美術館の建物への興味もあって見に行ってきた。
横山大観のプロフィール
横山大観は1868年(明治元年)に水戸藩士の子として水戸に生まれた。旧姓酒井、名は秀麿。のちに母方の姓を継ぎ横山となる。
東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。京都市立美術工芸学校教諭を経て、東京美術学校助教授となる。1898年(明治31)に校長である岡倉天心を排斥する東京美術学校騒動で助教授職を辞し、岡倉天心らとともに日本美術院の設立に尽力。
美術院の活動の中で、大観は菱田春草と共に大胆な没線(もっせん)描法を推し進め、当時は不評を買った「朦朧体(もうろうたい)」の画法を試みる。
大観は菱田春草と共に海外に渡り、コルカタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開く。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。
横山大観たちは岡倉天心に呼応しては茨城県五浦に住み、ここで研鑚を積み、1914年(大正3)日本美術院を再興する。
以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1935年には帝国美術院会員となり、1937年にはこの年に制定された第一回文化勲章の受章者となった。たくさんの作品を残し、1957年(昭和33)に89歳で死去。
「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」展
国立新美術館で開かれている展覧会(08年1月23日~3月3日)では、近代日本画の巨匠というにふさわしい横山大観の代表作75点が中心に明治、大正、昭和の三代にわたって展示されている。
あどけない幼児を描いた初期の代表作《無我 明治30》を最初に、作品が時代順に展示されている。途中、画具、旅行用トランク、携帯用ウイスキー入れ、カメラなどの大観の愛蔵品も見ることができる。
《月夜の波図 明治37頃》はアメリカ滞在中の作品がボストンから里帰りしたもの。
江戸時代の尾形光琳の《槇楓図?風》と大観の琳派的な《秋色 大正6》とを比較してみることができるのも興味深い。
《生々流転 大正12》は会場の中央に全長40メートルを超える長編絵巻を一巻まるごと広げて全面展示されている。葉先から落ちる水滴が集まり、やがて川になり、人の生活を見守りながら大河になり海に流れ込む。最後に雲気の中の龍が天に昇るまでを悠々と描いてある。
《夜桜 昭和5》はローマ美術展に出品するために描いた意欲作。日本画の精神をヨーロッパの人にアピールするために5ヶ月かけて描いたもの。《夜桜》と《紅葉 昭和6》が並んで陳列されているという豪華版。
四季の風景として日の出から月の出までの一日を描いた《四時山水 昭和22》は大観の昭和の集大成といわれている作品。
出口に近い最後の壁面にかけられているの《或る日の太平洋 昭和27》は、大観85歳の作品。背景の富士を望み、中景のうねりうずまく波涛は大和絵的手法から派生したもの。前景の大きく躍り上がって激突する怒涛に龍が昇る。大観は、野間清六に「涛の奔放な線が面白く、シュールリアリリスムのようだ」と評されて喜んだという。(ポスターの中の絵を参照)。
このほか、個人的には海山十題のひとつの《山に因む十題 龍踊る》に興味をもって見た。
会場でもらった展示作品リストによると、展示期間が前期と後期に分かれており、後期にもまた行ってみたいと思う内容になっている。《夜桜》と《紅葉》などは2月11日までで展示変えになるのでお見逃しのないように。