編集後記集
【メルマガIDN 第144号 080401】

■編集後記 今年も花が咲いた(徒然草考)
 メルマガの編集の手を休めて、「川沿いの南の散歩道」へ出かけてみた。これは昨年の同じ日の編集後記と同じ書き出しである。私の部屋の北側には水路があり、水路のそばには遊歩道が整備されている。水路は「草野都市水路」という正式の名前がついており、我が家のすぐ近くで「北の散歩道」の水路と合流し海へ流れている。
 気温が上がって急に咲いた「南の散歩道」の花も再び下がった気温に耐えてしっかりと花をつけており、突風の中でも花びらはほとんど落ちていない。
 
 花の季節になり、花を見るたびに思い出すのは、『徒然草の第137段』である。
花や月を愛でる
 《花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春のゆくへ知らぬも、なほ、あはれになさけ深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。・・・・・・》で始まる。

 さくらの花は満開の時を、月は影のない満月だけを見るものだろうか?この一文は、徒然草の第137段の内容をすべて言い表している。いや、徒然草のすべてを、と言っても過言ではないと思う。

 月を見るにも、十五夜の一点のかげりもない満月が、千里の向こうまで照らしているのを見るよりも、夜半過ぎになって宵から待っていて、やっと出てきた月が、趣深く青い光を放って、深い山の杉の木立に見えていたり、時雨の群雲の切れ目に見え隠れする様子は風情がある、と月を愛でる。
 
男と女の愛の機微
 《万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。・・・・・》

 男と女のかかわりも、首尾よく会って満足している場合だけが唯一の恋の趣なのだろうか?恋しいあの人が住んでいる遠いところに気持ちを馳せて、成就しなかった恋の思いに昔を偲ぶのも、恋の本当の趣を解することである、と言う。
 
祭りに世の栄枯盛衰を見る
 《さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。・・・・》

 祭り見物で、見せ物が来るまで酒を飲みものを食べてゲームなどに興じ、行列がやって来ると我れがちに桟敷に上がって一事も見逃すまいと身を乗り出して凝視して、何かあるたびに奇声をあげる。見せ物が過ぎたら、また遊びに興じる。

 祭りの始まる前の雰囲気を味わい、日が暮れる頃になって人もまばらになって目の前が淋しくなっていく様を見つめ、世の中の栄枯盛衰を連想されて感慨深い。これが、本当の祭見物なのだという。
 
死生観
 137段の最後は、
《この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。・・・・・》で始まる、死生観について述べる。

 この人たちがみんな死んでしまった後、次は自分の番だとしたら、死期はあっという間に来てしまうにちがいない。まだ若くても、健康だったとしても、思いもよらないのは死期の到来である。今日まで何とか生きてこられたのは奇跡である。死が自分とは縁遠いこととして、この世をのんびりとしていられようか、と戒める。

 ここに書いた解釈は、昭和29年明治書院発行の内海弘蔵と橘 宗利著による『改稿徒然草詳解』を元に、私が勝手に理解した内容を要約して記した。この本は、何十年も前の受験勉強で使用した参考書であり、その頃の書き込みがある。

 長い蕾の期間を過ごし、咲き始めるとあっという間に満開になり、そして、穏やかな風にも花吹雪、葉桜となり、夏には濃い緑に変わる。秋から冬には枯れてそこにあるとは見えないが、春になると短い期間その存在を存分に主張する。
 花が咲くのは楽しみであるが、一つ年をとる。当然のことであるが、花への期待と寂しさが同居するようになった。今年もいくつかの花を見て、来年もまた同じように花を見たいと期待しながら春をおくる。
 最後は昨年と同じ文で終わることになった。【生部】

 
定点撮影 2008年の「川沿いの南の散歩道」の桜

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