編集後記集
【メルマガIDN 第145号 080415】

■編集後記 (仮説)左 甚五郎は架空の人物 実は高松又八郎邦教である
 房総半島の中央の太平洋に近い夷隅町(いすみ市萩原2136)にある行元寺へ行った。行元寺で見たもの、そこで聞いた話をもとに「左 甚五郎は架空の人物、実は高松又八郎邦教である」という仮説を述べてみたい。学術の論文では許されないであろうことは承知の上で。

行元寺

 行元寺は、正式には《東頭山無量寿院行元寺》という名前で、嘉祥2年(849)慈覚大師円仁によって伊東大山(夷隅郡大多喜町伊藤)に草創された。東国で最初に開山されたところから、《東頭山》と名づけられ隆盛を極めた。
 その後平重盛によって現在の夷隅町荻原の地に移建され、冷泉家二階堂行元によって再興されてから、今年は700年目になる。房総天台教学の中心であり、京都・鎌倉からの仏教文化交流が深く、房総文化の発信基地となっていた古刹である。

 江戸時代には、学僧の一人、天海大僧正の弟子亮運大僧正(当時厳海)は家康や大多喜城主本多忠朝との信頼厚く、上野寛永寺学頭となって家光の師となったことで特に知られている。このように徳川家の庇護で寺勢は大いに栄え、多くの文化財を所蔵することができた。

高松又八郎邦教(くにのり)
 行元寺の内陣の正面上部に高松又八郎邦教の《波と龍》の彫刻がある。高松又八郎(?~1716)は江戸では公儀彫物師、徳川家御用をつとめ、弟子11人が活躍して高松家は彫刻界最高の地位にあった。
 上野寛永寺に徳川4代家綱・5代綱吉の廟、芝増上寺に6代家宣の霊廟に桃山文化を継承した優雅な作品を残した。
 高松又八郎の作品は、第二次世界大戦で戦災によって焼失し、幻の名工といわれ、作品の存在は確認されていなかった。

 しかし、2000年に行元寺の欄間の《牡丹に錦鳥》、《波と龍》など3点と、向拝の《唐獅子》《獏》などの修復作業を進められ、欄間彫刻の修復は2002年8月に完了した。
 修復は斉藤漆工芸が担当したが、取り外した欄間彫刻から「宝永三年御彫物大工高松又八郎邦教」の刻名が発見され、これがはじめて発見された在名の作品となった。
 
左 甚五郎
 左 甚五郎については、1967年の世界大百科事典(平凡社)もウィキペディアを見てもそんなに代わりがない。左 甚五郎は誰もが知る伝説的な彫刻職人で生没年不詳となっている。

 彼の作品は、日光東照宮の眠り猫をはじめ、北は青森県八戸市の櫛引八幡宮(メドツ=河童の伝説)から、南は福岡市の筥崎宮楼門(扉の桐紋彫刻)まで、全国に分布している。
 左 甚五郎作と伝えられる作品は各地にあり、落語や講談でも有名である。欄間の《野荒らしの虎》が夜な夜な田畑を荒らすので、悪さをしないよう網が掛けられている、《鎖でつながれた猿》、《一本の竹から彫った水仙に水をやると花が開く》、《知恩院・御影堂(忘れ傘)》などの逸話がたくさんある。

講談《名工甚五郎の水呑みの龍》
 落語の有名な噺に《ねずみ》があるが、ここでは《名工甚五郎の水呑みの龍》を紹介する。
 三代将軍家光が上野寛永寺の鐘楼建立にあたり四隅の柱に甚五郎をはじめ木彫の名人4人を選んでそれぞれ1匹ずつの龍を彫らせる。甚五郎の彫った龍だけがなぜか夜な夜な柱から抜け出して不忍池に水を飲みに降りるようになり大騒動となる。そこで甚五郎が「可愛そうだが足止めをする」と言って金槌で龍の頭へくさびを打ち込むと、その夜から龍は水を飲みに降りなくなった という話。

 寛永寺の跡地に昔の鐘楼と鐘は残っているが、鐘楼の四本柱に龍の木彫はない。すぐそばの上野東照宮の金箔の唐門の四脚の額面に美事な昇り竜・下り竜の高彫りがあって、東照宮ではこれが甚五郎作の「水呑みの龍」だと伝えている。

常磐津「京人形」
 天保14年(1842)に江戸・市村座で初演された歌舞伎狂言の一場面。甚五郎が遊郭で見初めた絶世の美女(梅ヶ枝太夫)に夢中になって、そっくりの京人形を彫りあげた。その人形を眺めながら酒を飲んでいると、魂を込めて彫った人形が動き出して一緒に踊る、というもの。
 偶然道で拾った太夫の手鏡を人形の懐へ差し入れると人形に太夫の魂が入り、甚五郎の相手をする遊女となり、鏡を抜くと甚五郎そっくりの所作をする男になる。歌舞伎では、常磐津と長唄の掛け合いで上演する。
上野東照宮の唐門
入り口の左右に左甚五郎作の龍の彫刻がある
こちらより詳細をご覧になれます
常磐津《京人形》の左甚五郎(甚五郎役は旭 七彦)
花柳園喜輔《踊狂の四十年》の舞台
08年4月13日 国立劇場
 行元寺の本堂の内陣の上の欄間に高松又八郎邦教の《波と龍》の彫刻がある。行元寺では写真の撮影が禁止されているので、彫刻をお見せすることが出来ないのは残念である。この彫刻の上方の天井に近いところには、《青海波》や《卍の連続模様》などが描かれており、極楽や徳の集まるところをあらわしていると言う。

 本堂でのこのような説明の中で、「甚五郎は架空の人物で、実在した高松又八郎邦教が、実は左 甚五郎であるという説がある」と聞いた。江戸期における左甚五郎の活躍と、高松又八郎邦教は重なって見えるところも多い。高松又八郎は公儀彫物師、徳川家御用をつとめたこと、上野寛永寺や芝増上寺へのかかわり、など共通点も多い。

 一方では、「棟梁彫刻の系譜としては、左 甚五郎の流れを組む開祖嶋村優元から、嶋村円哲(嶋村家)と高松丈八郎(高松家)に2分している。高松家では又八が有名である」との文献からは、この二人は別人であると理解しなくてはならない。

 左 甚五郎の作品とされる年代も、安土桃山時代から江戸時代後期まで、300年の長期にわたっている。左 甚五郎は架空の人物であり、時代を超えて活躍した複数の名工たちの逸話を、ひとりの「甚五郎」に集約して生まれた人物像であるかも知れない。
 高松又八郎邦教が左 甚五郎と同一人物であるかはもっと調べてみる必要がありそうでだ。

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