私の部屋の北側には水路があり、水面にかぶさるように毎年花が咲く。水面に向かって下ろしている枝の先端の最も水面に近いところから開花し、毎年私にとっての開花宣言となる。
水路のそばには遊歩道が整備されている。「草野都市水路」と遊歩道は、「水循環・再生下水道モデル事業」として整備されたもの。早足で30分ほどのところの薗生(そんのう)が水路の源流になっており、宮野木ジャンクションの中心あたりを源流とするもうひとつの水路と、我が家のすぐ近くで合流し海のへ流れている。
この遊歩道には桜が植えられており、この土地へ越してきた頃には細かった桜の幹がずいぶん大きくなった。水路に両岸から枝が伸び、川面を覆うように花が咲く。また、遊歩道には花のトンネルが出来、この時期の遊歩道はとてもにぎやかになる。
4月5日のNHKのFMの《能楽鑑賞》で、観世流の能《西行桜》をやっていた。いまの時期に合わせて組まれたプログラムだと思うが、ずっと昔に見た能《西行桜》のことが思い出された。
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
この西行の和歌をご存知だと思う。西行の家集である山家集の花の歌群に入っており、1175年頃に成立していたといわれている。花、月と美しいものの象徴と覚りを得たお釈迦様の入滅した日のあこがれをあらわしたもの、といわれている。
古文の時間に、《桜と日本人》とか《花の散り際にみる死生観》などと解説があり、《きさらぎの望月》については、如月は2月であるが、新暦では春のことである、などと教わった記憶も残っている。
西行、若き日の佐藤
義清、法号は円位
西行は1118年(元永元年)に生まれ、1190年(文治6年)に没す。父は左衛門尉佐藤 康清、母は源
清経女。院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人。俗名は佐藤義清(さとう
のりきよ)、法号は円位というのが定説である。
ここに紹介した西行の和歌については知っていても、西行その人についての知識はそんなにあるわけではない。06年の暮れからおよそ1年間にわたって朝日新聞の朝刊で連載された夢枕
獏の小説『宿神』が記憶に新しい。
『宿神』で、佐藤
義清は、平清盛と同じ年齢の親しい友で、共に鳥羽院の北面の武士という設定になっていおり、清盛が脇役となって義清に絡む。
義清は、蹴鞠(けまり)の名手、流鏑馬(やぶさめ:猛スピードで走る馬の上から的を矢で射抜く)の射手として武勇にすぐれ、詩歌に秀でており、時代の寵児として描かれている。
義清は、保延6年(1140年)に失恋により、23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称したとされている。『宿神』でも、白河院の愛妾であり、鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子との恋が書かれている。女院に恋をして、女院に一度だけ情けをかけてもらったが、実ることはなく出家する。
『宿神』では、夢枕獏が義清に《宿神が見える》という《特殊能力》を与えて、物語に特殊な味付けをしている。この《特殊能力》は、待賢門院璋子、白河法皇、清盛の手下の傀儡の申、盛遠に惨殺された袈裟、義清の祖父も所有しており、夢枕獏が得意とする幻想の世界に読者を引き込む。『宿神』では、西行の最晩年のことまで描かれているが、若き日の義清が鮮やかに物語の中で生きている。
能《西行桜》
能《西行桜》は、義清が西行となり、放浪、隠遁の時代を題材としている。所は、京都西山の西行の庵。ここの桜は名木で、毎年多くの花見の人が訪れる。
昨日は東山地主の桜を一見仕りて候。今日はまた西山西行の庵室の花。盛なるよし承り及び候ふ程に。
花見の人々を伴ひ。唯今西山西行の庵室へと急ぎ候
と花見の客が押し寄せてくる。
西行は、世を捨てた自分の友はこの一本の桜の木だけであり、ひとり静かに花を眺めたいと願う。そこで西行は、人が群れて花見に来させることが、桜のとが(短所・罪)なのだ、と嘆く。
埋木の人知れぬ身と沈めども。心の花は残りけるぞや。花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。
あたら桜の。とがには有りける
能独特の舞台転換があって、桜の精が老翁として現れる。桜の精は《桜のとが》と言われたことに対して、草や木は人間世界とはかかわりがないから、ひとの世のとがなどない、その人の心の問題でしょう、と抗議する。
おそれながら此御意こそ。少し不審に候へとよ。浮世と見るも山と見るも。唯其人の心にあり。
非情無心の草木の。花に浮世のとがはあらじ
そして、桜の精の老翁は、京の都の高名な花の名所に思いを馳せ、花の美しさを称えて舞を舞う。
やがて鐘が鳴り夜明けが近づくと、老翁の姿はなく、あたり一面に花が散り敷いている。西行は春の明けゆく夜を惜しみ、終曲となる。
夢は覚めにけり嵐も雪も散り敷くや。花を踏んでは同じく惜む少年の春の夜は明けにけりや
翁さびて跡もなし翁さびて跡もなし
NHKのFMの《能楽鑑賞》で《西行桜》の後半を聴いて、西行と桜のことを書こうと思い、夢枕
獏の『宿神』のことを思い出し、西行の若き日の佐藤義清がよみがえった。
長い蕾の期間を過ごし、咲き始めるとあっという間に満開になり、そして、穏やかな風にも花吹雪。葉桜となり、夏には濃い緑に変わる。秋から冬には枯れてそこにあるとは見えないが、春になると短い期間その存在を存分に主張する。
今年もいくつかの花を見て、同時に月も見た。来年もまた同じように花を見たいと思いながら春をおくる。
【生部圭助】
編集後記の目次へ
龍と龍水のTOPへ