■編集後記 縄文的な画家 片岡球子 《追悼103歳 片岡球子展~天に献げる地上の花~》を見に行った。この展覧会は名古屋、大阪、岡山、東京を巡回していたもので、東京では5月20日より6月1日まで日本橋高島屋で開催された。破天荒ともいえる片岡球子の絵をじっくり見てみたいと思っていた念願がかなった。
展覧会の構成 片岡球子の捕らえ方はいくつかあるようで、過去の展覧会の内容を見ると、それぞれにテーマを掲げて開催されている。《画業70年記念》や《文化勲章受章記念》の他に、《面構十三人衆》、《人間心理の鮮烈な描写》、《浮世絵師展》、《浮世絵師と富士》、《極める 人間と山》などがテーマとして取り上げられ、片岡球子の画業にスポットをあてている。
今回の《天に献げる地上の花》では3部構成になっており、片岡球子をおおよそ時系列に紹介している。また、初期作品がたくさん取り上げられ、新発見の絵本原画なども展示されたことも今回の特徴である。
3部構成:《Ⅰ.初期作品から転換期》 《Ⅱ.富士と山々
》 《Ⅲ.人物 面構と裸婦 》
初期作品 片岡球子は1905
(明治38)年1月に、札幌市で酒・味噌・醤油の釀造業を営んでいた片岡家の8人兄弟の長女として誕生した。札幌高等女学校を卒業したときに小学校正敎員免状を取得したが、絵描きになることを決心し、女子美術専門学校日本画科に入学。1926(大正15・昭和元)年、21歳のときに卒業し、敎員免状を生かして、横浜市大岡尋常高等小学校の敎諭となる。
小学校の教え子をモデルにした作品や、故郷である北海道の風景を日展に出品したが毎回落選。昭和5年に《批杷(びわ)》を院展に初出品し、初入選を果たしたのが25歳のとき。その後も「落選の神様」と呼ばれていたが、「ゲテモノ描き」と云われ「下手な画家」と云われながらいつも全力投球で修業を続け10年後に院友となる。
その頃に伝説となっている小林古径の有名な言葉を紹介する。「あなたは、みなから、ゲテモノの絵をかく、とずいぶんいわれています。今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。しかし、ゲテモノと本物は紙一重の差です。そのゲテモノを捨ててはいけない。(中略) 手法も考え方も、そのままでよろしいから、自分のやりたい方法で、自分の考える通りに、どこまでも描いていきなさい。」
今回の展覧会には、初期の作品が沢山出ていた。初めて院展に入選した1930年の《枇杷》は出ていなかったが、1952年(47歳の時)に第37回院展に出品して、日本美術院賞と大観賞を獲得し、日本美術院同人に推挙された《美術部にて》が展示されていた。
展示作品の例 右上が《美術部にて》 1952年の作
【開催案内チラシより】
《富士に献花》 1990年の作 【開催案内チラシより】
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富士と山々 片岡球子は人物画を描いていて、風景に関心を示し始めたのは、1950年代の半ばを過ぎてからの頃である。最初は海を描いたが関心は山(火山)に移る。1961年頃に北海道の羊蹄山から行脚を始め南の桜島へ、蔵王、浅間山、立山など、活火山から死火山へと対象が変わり、富士山に至る。
片岡球子は山と一体になろうとし、山の生命を感じて、生き物として山を描いた。以下は、片岡球子のことばであり、富士山を描く時の心構えをよく表している。
「富士山の表も裏も体全体を描かないと富士山を描いたことならない、目をつぶっても富士山が目の前にあるくらいの追力を持った富士山を描けなければいけないと富士山に命令されたよう、富士山を見上げてお伺いを立て、描かさせて頂くことを感謝しつつ、そして必ず、花の絵を描いたきものを着せるつもりで富士の身体に花を描いた・・・・」。
今回も展示されていた、有名な《富士に献花》は、1990年(85歳)の作である。
面構(つらがまえ) 1955(昭和30)年、50歳のときに横浜市立大岡小学校を退職し、女子美術大学日本画科の専任講師となり、その後、助敎授を経て敎授となる。
1966(昭和41)年、61歳のとき、新規に開校した愛知県立芸術大学日本画科の主任敎授に迎えられる。
片岡球子の黄金時代の幕明けとなる《面構シリーズ》は61歳の年の足利尊氏・義満・義政の3部作より始まったものであり、白隠、徳川家康公、豊太閤と黒田如水、そして、浮世絵作家の歌麿、清長、国芳、北斎、東洲斎写楽に及ぶ。
裸婦 片岡球子は、78歳(1955年)のときに初めて裸婦をモチーフに描いて春の院展に発表してから、100歳まで毎年休むことなく裸婦像を発表し続けた。
版画 片岡球子は、59歳の春(1964年)にすすめられて《水仙》を制作したのをきっかけに、リトグラフ(石版画)の制作をはじめた。版画を自らの個性を表現する方法として重視するようになり、花と富士を中心に多くの作品の制作を続けてた。
片岡球子は最も縄文的な画家である 近年の片岡球子は、富士山を中心とした《山》、自らライフワークと称する《面構》のシリーズ、そして《裸婦》の作品を残してきたが、2008年1月16日、急性心不全のため藤沢市内の病院で亡くなった。103歳だった。
ここまでは、片岡球子に関する文献などを参考にしており、片岡球子に対する一般的な見方であると言えよう。以下は私の個人的な見解である。
私は、《縄文的なものと弥生的なもの》の二大典型(プロトタイプ)に対比させてものを見ることを意識している。編集後記にもこれまでに3回書いている。
その中から、《縄文的なもの》を意味づけているキーワードを拾ってみると、自由で奔放・怪奇な力強さ・情念の焔・動的・量感にあふれた強靭な意欲・自由で敏捷な感受性・生命の流出・自由な空間性・ディオニュソス的・ヴァイタル・北斎・岡本太郎・フルトヴェングラー、などのことばが並ぶ。これらのことばは、まるで片岡球子のことを表しているようだ。
押しの一手で体当り、個性的でアクが強く、目に見えない世界を野太い線と激しい原色で描いた片岡球子を、《縄文的なもの》の典型として見ることにより、片岡球子という画家の本質ををよく理解できたような気がする。【生部圭助】
【参考とした主な文献】
・東急本店開店20周年記念 片岡球子展 1987年 主催 片岡球子展実行委員会
・白寿記念 片岡球子展 2004年 主催 朝日新聞社
【メルマガIDNに書いた 《縄文と弥生》】
・谷川徹三・高橋富雄・丹下健三の「縄文と弥生」 【NO79・05/07/15】
・吉田秀和の「縄文的」なフルトヴェングラーと「弥生的」なワルター 【NO115・07/01/15】
・梅原猛の「楕円文化論」と「縄文と弥生」 【NO116・07/02/01】
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