編集後記集
【メルマガIDN 第177号 090815】

不透明な時代を先取りした画家 ゴーギャン

ゴーギャン展のちらし
 東京国立近代美術館で開催されているゴーギャン展を見た。(開催期間:09年7月3日~9月23日) 名古屋ボストン美術館に引き続いて東京で開催されたもので、今回は、ボストン美術館より初来日の《我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》を中心に、53点が展示されていた。《われわれは~》は、ボストン美術館と名古屋ボストン美術館が姉妹館提携を結んでいる縁で初来日した。大規模なゴーギャン展は1987年に同美術館で開催されて以来のことである。

ポール・ゴーギャン
 芸術新潮の09年7月号に《特集 ゴーギャンという人生》が組まれている。この特集では、ゴーギャンについて多面的に掘り下げているが、岡 彩雲が、『ポール豪顔とノアノア(達磨堂文学界)』という本を書いたことが紹介されている。ゴーギャンを《豪顔》と表現していることを大変面白いと思った。

 そのゴーギャンは1848年にパリで生まれた。インカとスペインの血を受けているという。幼少期の4年間を南米のペルーの首都リマで過ごし、7歳の時にフランスのオルレアンに帰る。17歳の時、見習い水夫として商船に乗り込み6年間を海上で過ごす。
 1871年に海軍兵役を終えた23歳のゴーギャンは株式仲買会社に勤める。翌年にメットと結婚し5人の子供をもうける。
 ゴーギャンは株式仲買人として成功を収めるが、35歳の時(1883年)に,経済不況をきっかけに、「今日から私は毎日絵を書くつもりだ」と言って、株式仲買会社をやめてしまう。

 画家になる決心をして以来、ルーアン、コペンハーゲン、ポン・タヴェン、パナマ(運河の建設の人夫として)、ポン・タヴェン、南仏のアルル(黄色い家でゴッホとの共同生活を送る)、ポン・タヴェンと住まいを変えながら画家となり、独自の様式を創造する。

 自らを《野蛮人》と位置づけたゴーギャンは、新天地を求めて1891年4月にタヒチに向けて出発。ゴーギャンは新鮮な目でタヒチの風景や生活、タヒチ女性を描いた。2年間の第1次のタヒチ滞在を終えて1893年8月にマルセイユにもどる。

 帰国してパリで個展を開くが、パリ画壇の手痛い無視と冷笑を受ける。ゴーギャンは、タヒチの作品を理解してもらうために、タヒチ滞在記『ノアノア(かぐわしき香り)』を書く。

 1895年7月に、フランスへは再び戻らない決意でマルセイユを発ち、再びタヒチに向かう。ゴーギャンは健康の不安にかられながら、《生活するひとりの原始人》として多くの傑作を描いた。
 1897年彼の最高傑作であり、遺言ともいえる《我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》を描いた。

 1901年にゴーギャンは、タヒチを去り、さらに《野蛮》が残るマルキーズ諸島のヒヴァ・オア島へ移る。堕落した文明を憎悪し、原始と野生を求め続けたゴーギャンは、1903年5月8日の朝、急激な心臓麻痺で死ぬ。ゴーギャンが55歳の時。

《白い馬》との出会い

白い馬 (オルセー美術館で1989年に撮影)
 私が最初にゴーギャンに興味を持ったのは1973年にルーブル美術館に行ったときのこと。当時のルーブルでは、印象派の絵画は別館にあった。本館の有名な絵画や彫刻を見る前に案内図を頼りに別館に行き、印象派の絵をたくさん見た。その中にゴーギャンもあり、最も気に入ったのは《白い馬(1898年)》だった。

ゴーギャン展 1987年 東京国立近代美術館
 1987年3月から5月に東京国立近代美術館でゴーギャン展が開催された。出品作品一覧によると、1880年から1902年までの絵画に彫刻を含めて151点が展示されている。ゴーギャンをまとめてこれだけ見てく圧倒された。
 全世界からゴーギャンが集められたようで、特にエルミタージュ美術館のゴーギャンが大量に展示されていたのが印象的だった。しかし、ルーブルからは出展がなくゴーギャン展としては不満だったが、前年の1986年12月にオルセー美術館が開館しており、印象派の作品はルーブルからにオルセー移管された。開館当初にゴーギャンの不在が許せなかった事情もうなずける。

《白い馬》との再会
 次に「白い馬」に再会したのは、1989年の秋にオルセー美術館に行った時のことである。《ヨーロッパ技術開発国際化システム調査団》の一員としてパリを訪れた夜のパーティーの席で、奥さんが絵描きというDr.E.SPITZさんが奥さんに電話して《白い馬》のありかを確かめてくれた。「オルセーの3階に確かにある、《白い馬》は少し青くなっているよ」とジョークを交えて教えてくれた。
 次の日は土曜日で調査団の休日。オルセー美術館にはゴーギャンのコーナーがあり、《白い馬》に再開した。大好きな「ヴァイルマチ(1897-98年)」や最後の作品といわれている《雪のブルターニュ風景(1903年)》などゴーギャンを満喫した。

 オルセー美術館では、写真撮影が許されており、許可をもらった人が絵画の前に画架をたて描いているのを見て驚いたことを記憶している。このとき撮影したネガを見ると、絵画としては17点の写真が写っている。

《我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこに行くのか》との出会いと再会
 ゴーギャンが第2次タヒチ時代に描いた《我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》を見たいと長い間思っていた。1995年に《米国テクノ・エコノミックス調査団》の一員としてボストンにも行くことになりチャンス到来、ボストン美術館で139×375cmの大作に対面した。

 この絵にはゴーギャンのこれまでの試みがすべてつぎ込まれている。ゴーギャンは病や困窮に苦しみ、最愛の娘アリアーヌの死を知り絶望の淵に沈む。彼は自殺を決意し、彼の遺言ともいえるこの絵を1897年の12月に描いた。その後、自殺を図るが未遂に終わる。

 この絵に対するゴーギャンの思いは、翌年に友人(モンフレー)に送った手紙で知ることが出来る。「私は12月に死ぬつもりだった。死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、夜も昼も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。そうとも、これは・・・(中略)私は死を前にして全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をこめてこれを描いた・・・」。これに続いて、絵の中のシーンの説明をしている。

 この絵の題がこの絵のすべてを語っている。右から左へと物語になっており、《生誕》、《日常》、《死》を寓意的に表している。ゴーギャンはパリで個展を開くにあたって、モチーフを説明するために9枚の絵を展示しており、それぞれに興味深い内容がこめられているが、ここでは省略する。


我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか (ゴーギャン展の ちらし より)

 《かぐわしき大地》は大原美術館で、《海辺に立つブルターニュの少女たち》は国立西洋美術館でも見ることができる。ゴーギャンの宝庫はパリの《オルセー美術館》であり、サンクト・ペテルブルグの《エルミタージュ美術館》であろう。オルセーとエルミタージュからの作品がない50点ほどのゴーギャン展は少し寂しいと思う。
 しかし、今回の展示の圧巻は《我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》であり、この一枚を見るだけで十分に満足できるものである。
 また、《ノアノア(かぐわしき香り)》のための連作版画が、ゴーギャン自身の摺り、ロワ版、ポーラ(ゴーギャンの四男)版が比較して見ることが出来るように展示がされていたことも特筆して良いであろう。

 なぜゴーギャンに惹かれるのか。色、形態(フォルム)、自然と楽園、力強さ、新しいことへの冒険心、強烈な自己主張、波乱万丈の生涯、不遇の中でのがんばり、自由な暮しへの憧れ、・・・・・・。ゴーギャンは、不透明な時代を先取りした画家として今日多くの人に受け入れられ、評価されている、と私は思う。【生部 圭助】

【参考とした資料の主なもの】
・図集(カタログ):ゴーギャン展 1987年 東京国立近代美術館/2009年 東京国立近代美術館
・特集 ゴーギャンという人生 芸術新潮 2009年7月号
・福永 武彦:ゴーギャンの世界 1993年 講談社
・東野 芳明:ゴーギャン 世界の美術20 Gauguin 1964年 河出書房新社
・アサヒグラフ別冊美術特集 ゴーギャン 1990年12月
・NHK 楽園の絵は百年の時を越えて~ゴーギャンと日本~ 09年7月20日放送
・新聞記事:ゴーギャン 文明と野生(日経新聞 94年10月23日・30日・11月6日・13日)/ゴーギャン展紹介(朝日新聞 09年5月27日

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