■浅田次郎の『天切り松闇がたり』と名刀《小龍景光》
新年に《初湯千両》と倶利伽羅龍というおめでたい話題を取り上げる。今回の本題は、浅田次郎の小説の中に出てくる倶利伽羅龍が彫られた国宝指定の名刀《小龍景光》を東京国立博物館で見たというお話。
浅田次郎の『プリズンホテル』の夏・秋・冬・春の4冊を読んだ後、『天切り松闇がたり』の文庫本の4冊を読み終わった。《小龍景光》は、文庫の第3巻『初湯千両』の第4夜で語られる『大楠公の太刀』のなかに登場する。
『天切り松闇がたり』文庫の第3巻
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浅田次郎
浅田 次郎は1951年12月13日の生まれ。本名は、岩戸康次郎(いわと こうじろう)。自衛隊に入隊、のちアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説やエッセイのほか、中国歴史小説がある。日本の大衆小説の伝統を受け継ぐ代表的な作家であり、現代小説では「平成の泣かせ屋」の異名を持ち、人情味あふれる作風に特徴がある。
天切り松闇がたり
明治の晩年に生まれた村田松蔵は子供のうちに盗賊の一家に弟子入りすることになり、部屋住みになって2年目、大正8年に11歳のときに杯を下ろしてもらい、《天切り松》という二つ名で世間を渡ってきた。
情けなくもくだらない犯罪に手を染め警察の厄介になっている現代の若い犯罪者達に対して、天切り松が《目細の安吉》一家の痛快な昔話を語り聞かせることで説教をする、というのが闇がたりの構成である。
昭和の怪盗が留置場で語る闇がたりの世界は、第一巻が大正初期に始まり、震災を経て、第四巻は戦争へと向かって行く昭和初期が時代背景となっている。
目細の安吉一家
手下(てか)二千人を算えた《仕立屋銀次》は東京市中の盗っ人の総元締め。銀次が明治42年の大検挙で網走落ちとなり、跡目に祭り上げられようとした《目細の安吉》は物の道理をわきまえた堅物で、跡目相続を遠慮して、5人の仲間と一家を構える。
親分の《目細の安吉》は、中抜きという技の達人で、子供の手まり歌にも歌われる有名な掏摸。安吉一家の若頭は押し入った先で説教をすることで有名な《タタキの寅弥》。普段は書生に化けながら百面相を駆使する詐欺師《書生常次郎》。松蔵に《天切り》の技を伝授した《黄不動の栄治》。ゲンノマエという技を得意とする紅一点《振袖おこん》は唯一の女性。
目細の安吉一家の大儀と流儀
《目細の安吉》一家のすることは、強盗とか夜盗とか掏摸とかをする社会悪の犯罪者犯罪だが、そこには江戸幕末以来の任侠の精神と江戸っ子の心意気が生きており、彼らがする仕事のすべてには大儀と流儀がある。手に入れた金品を懐に入れることは絶対にせず、持ち主に返したり、貧乏人の助けに使ったり。鼠小僧の精神に通じる心意気がある。
銘:備前国長船住景光 号:小龍景光 全長:二尺四寸四分(73.93cm)
反りは実物より少なく見えている(撮影の角度による)
直刃(すぐは)調の刃文
太刀の切っ先
表の樋の中の倶利伽羅龍 右側が刀身
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大楠公の太刀
『大楠公の太刀』は、『小説すばる』に2000年6月~7月号に連載された黄不動の栄治の物語である。
黄不動の栄治の幼馴染の石倉宮子は、七つで芸者に売られるが、大東京百美人の口絵を飾るほど有名になった《赤坂小龍》。小龍の名は伊藤博文が座興に名づけたもの。
病を得て死の床にあることを知った黄不動の栄治は宮子を見舞ったあと、宮子の名の由来である名刀《小龍景光》を土産に見せて、赤坂小龍の体にもどして冥土へ送ってやりたいと思う。
しかし、《小龍景光》は楠正成の佩刀でもあったとされ、幕末の愛刀家だった山田浅右衛門吉睦が商人より買い入れ所蔵、のちに大久保一翁の手から天皇に献上される。明治天皇が日清日露の戦時に軍刀として常に佩用したもので、お堀の外へ出るはずもない天皇家秘蔵のお宝。
相談を受けた、さすがの安吉親分も思案に余り、永井荷風に同行してもらい、病床の森林太郎(鴎外)に頼みに行く。帝国博物館総長でもあった森鴎外は、皇太子殿下誕生日記念特別国宝展示会にことよせて《小龍景光》を御金蔵から上野の山まで出すことを計る。
天下の怪盗《黄不動の栄治》は、墨染の黒半纏に頬かぶりの盗ッ人装束に身を固め、帝室博物館表慶館に展示されている《小龍景光》を、江戸石堂の刀鍛冶門下にあって虎徹の生まれ変わりといわれる石堂是光が手なぐさみに打った《写し》とすりかえる。
寝床を上げた青畳の上に江戸褄の着物を肩からかけて座った宮子は、「あとにも先にもこの一声をもちまして、お情けの数々、ごめんこうむります」と言って背筋を伸ばす。《小龍景光》に寄り添うようにおかれた三味線を持ち、胸を病んだ病人とは思えない声で朗々と『保名』を唄う。
小龍景光
《小龍景光》は現在、東京国立博物館に保管されている、国宝指定の太刀。銘:備前国長船住景光、元亨二年五月日、伝:楠木正成公佩用、号:小龍景光、全長:二尺四寸四分(73.93cm)。本来長かった刀身を磨り上げて短くした結果、刀身にある龍の彫り物がハバキ(刀身を鞘に固定する物)からのぞいている感じになったので《のぞき龍景光》とも呼ばれている。
景光は長光の子といわれ、鎌倉時代末期の備前長船派の正系の刀工。この太刀は,小板目のよく約(つ)んだ地鉄に,直刃(すぐは)調の刃文で,景光の最高傑作にあげられる。表裏に棒樋を彫り,表の樋の中に倶利伽羅龍(くりからりゅう)と裏の樋の中に梵字を浮彫りとしている。
浅田次郎は小説のなかで書いている。「常夜灯のぼんやり灯る展覧会場の中央に、でんと鎮座ましたるは大楠公の太刀、備前長船の刀匠初代景光が精魂傾けて打ち下ろしたる大業物、茎(なかご)から棟へと精緻を極める剣巻竜が彫ってあるところから、人呼んで小龍景光てえたいそうな名前ェの、鎮護国家、尽忠報国の宝刀だ」。
倶利伽羅龍 くりからりゅう
倶利伽羅竜とは、不動明王が悪を切るため右手に持つ倶利伽羅剣に一匹の黒竜が巻きつき、剣先を飲み込まんとする図である。不動明王が右手に持つ剣は降魔の剣とも呼ばれ、主尊として悪を罰するだけでなく、煩悩を打ち砕き、修行の効を達成させる慈悲の存在ともされている。
エピローグ
『大楠公の太刀』を読んでいたときに、東京国立博物館で《小龍景光》が展示されていることを知り、2回見に行った。東博では、禁止の表示のあるもの以外は写真撮影が許されている。照明の条件と前面にガラスがあるために、刀の全身と切っ先の満足できる写真を撮影することが出来なかった。
《小龍景光》の写真はこちらでご覧ください
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