■いけばな 歴史を彩る日本の美
お花を始めたのは、会社を辞める1年前の2000年3月のこと。定年を1年後に控えて、何かやりたいとは考えていたが、半ば冗談から会社の部活の華道部に入れてもらった。それからこの春でIDNと同じく10年の節目を迎える。 お花を始めてから1年経って3級を申請するときに「龍水」という華名をいただいた。龍水は2001年に退職した後も部活動に参加させてもらい、毎週、佐伯先生の教えを乞うた。2002年4月に「師範」の資格をいただいた。 その後、会社の部活は休部になったが、月に1回、本部の研究会に精勤し、属している会の行事に参加して活けている。 また、千葉地区で毎年開催される「千葉ブロック華道展」にも参加して、たくさんの先輩達(ほとんどが私より若い女性)との知己を得た。 この間、流派合同の花展など、見るようにしており、2007年にスペインのバルセロナの近くの小さな街で花展を行ったときには、これまで怠っていたので、花の歴史についても学んでから出かけた。 このたび、江戸東京博物館で、『いけばな 歴史を彩る日本の美』(2009年11月23日~2010年1月17日)が開催されたので、花の歴史を知りたいと思って、見に行った。 展覧会『いけばな 歴史を彩る日本の美』の概要 本展では、重要文化財を含む約170件を通して、日本のいけばなの多彩な展開や芸術性について紹介されている。後世のいけばなの手本とされた室町時代の花伝書や代表的な立花図を並べた屏風、花を楽しむ女性たちを描いた浮世絵、いけばなの伝統的な型を復元展示、大名邸で立てられた大型の立花をCGで再現するなど、いけばなの発祥から今日に至る流れを示す展示がなされていた。 江戸東京博物館では1階の展示室を使って、プロローグのゾーンを最初に、第1章から第5章に分けて展示されていた。(第4章ははなの器) プロローグ いけばなの源流 「いけばな」に、成立の重要な要素として二つの源流を見る。仏前の空間を花で飾って浄土の世界を再現し、仏には供物として花と香と燈明を捧げる供養がなされた。 その一は、仏前供花の飾り方より座敷飾りの花が生まれ、それが形・様式となり発展したというもの。一輪の花からも自然のいとなみを想起し、鑑賞するだけでなく、花や樹木そのものに霊性を感じて神のシンボルや依代(よりしろ)と見なすのがその二。
室町時代の京の有力公家邸では、平安時代以来の花の有力を競う「花合せ」に続く「花御会」(はなぎょかい)が行われていた。また、和歌や連歌の席の座敷飾りとして、仏前供花を元にした飾りの形が整えられた。 室町時代後半になると、造園や座敷の飾りを担当していた同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる人々や、僧侶の中から、特に花を専門に扱う人が現れて花の秘伝書・口伝書を著し、飾りの一部であった花が、次第に独立した作品として鑑賞の対象となってきた。 第2章 豪華になるいけばな 公家や武家から町人衆へ 戦国の世、豊臣秀吉による天下統一が成立し、江戸幕府が成立した16~17世紀頃から、武家の屋敷では儀礼の場の飾りとして「立華(りっか)」が取り入れられた。城郭や大名邸の大書院の空間を飾るため、「いけばな」は大きく豪華になった。江戸時代初期には、公家や武家から僧侶、町衆までが参加する、いわゆる寛永文化が花開く。 いっぽう京都の宮廷でも、内裏や仙洞御所、公家邸では頻繁に立花の会が催され、上流文化人の社交の場にふさわしい華麗な花が立てられた。 第3章 流派の誕生といけばな大流行 公家や武家の間に広まった「立華」の流行は、元禄期には富裕な町人階層まで及ぶ。江戸中期以降の「いけばな」は新しい文化の担い手となる町人階層が中心になり、一般町家の床の間を飾る簡易に楽しめる抛入れ(なげいれ)花・生花(せいか)が人気を集めた。 人気絵師によって、美人が花を活ける図の作品もたくさん制作され、出版ブームにのった「いけばな」の入門書や手引書、図録類も刊行され、「いけばな」は爆発的な流行をみる。 江戸をはじめ、全国各地を活動の拠点として新しく流派をたてる花道家が現れ、立華・生花の各流派は家元制度を確立する。 第5章 いけばなの近現代と広がり 明治維新では、それまでの大きな支持層であった武家や商家が没落し、「いけばな」は一時衰退する。しかし、欧米の文化がとりいれられたのを期に、西欧の花材や技法を導入したいけばなが創出され、また、外国人が、日本文化を世界に紹介し、「いけばな」も日本文化の代表の一つとして世界に知られるようになる。 「いけばな」は積極的に女子教育にとり入れられ、再び勢いを取りもどす。また、生活様式の変化により、盛花など住宅の応接間を飾るのに適した自由花の発展をもたらす。 大戦前から、新しい素材や理念を取り入れ、現代のいけばな・前衛いけばなが生み出され、伝統的な様式美の作品から前衛的な作品まで、多彩に展開し今日に至っている。 エピローグ 「いけばな」の歴史は以外にわかりにくい。名称として、立花(たてはな)・立花(りっか)・立華(りっか)・生花(せいか)・盛花・抛入れ・投入などが使われ、それぞれが意味を持ち、歴史を語る人によって異なった意味に使われている場合がある。 花を活ける(生ける)行為にも、立てる・挿す・盛る、などが使われている。 室町時代に使われた、いけばなの原点ともいえる「立花(たてはな)」についてひとこと。「花をたてる」というのは、ある種の作為により抽象化、虚構化をはかり、花の美を再構成する、と解釈されており、当時の花伝書には、「花のたてようをしるし・・・」とあり、構成論や花の美学や哲学についても書き示されている。 毎月の研究会では与えられたテーマで、花道展では漠然とテーマを決めて活けているが、いけばなの歴史を勉強し、他の流派の流儀を知って活けると、もっと進化した花を活けることが出来るようになるのだろうか。【生部圭助】 【参考とした資料:会場の展示の説明と図集 中山真知子著『いけばなの起源』】 立花(たてはな)は、「七」を基本原理とし、七つの枝には、それぞれ意味がある、という説があるが、難しいお話になるので、ここでは省略することとする。(メルマガIDN135号に、スペインで七支刀にインスパイヤーされて花を活けたお話を書いていますので、興味のあるかたはご覧ください) 編集後記の目次へ 龍と龍水のTOPへ |