龍のコンサート三昧2010
【メルマガIDN編集後記 第193号 100501】

■龍のコンサート三昧2010 【その3】ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会を聴く
 1973年に調査団の一員としてミュンヘンを訪れたときには、市内で大規模なコンベンションが行われており、市内にホテルを確保することが出来なかった。我々はミュンヘンから60kmほど西にある、アウグスブルグのホテルに泊まった。アウグスブルグは、アマデウスの父レオポルド・モーツァルトが生まれところであり、モーツァルトの家をはじめ数多くのモーツァルトゆかりの場所が残されている

 ミュンヘンでのコンサートとオペラと言えば、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、または、バイエルン国立歌劇場ということになる。その頃は若かったので、コンサートの終了後、列車でアウグスブルグへ行き、駅の近くのホテルにたどり着くことはできると思ったが、初めての土地で、さすがに無茶だと判断し、ミュンヘンでのコンサートはあきらめることにした。

 そして今回は、ミュンヘンフィルを聴く機会に恵まれた。ピアノのソリストに、M.ポリーニ、指揮者に次世代を担うドイツ人指揮者と目されているC.ティーレマンという豪華な組み合わせに期待した。

《ガスタイク》のそばを流れるイザール川




ミュンヘ・フィルの本拠地《ガスタイク》




ポリーニとティーレマンとミュンヘンフィル
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ポリーニとティーレマン







国際特急(ICE)でライプツィヒへ向かう

コンサートホールのある《ガスタイク》
 2010年3月10日、夕食会のあと少し休んでから、凍りついた歩道を注意しながら数分歩いて、コンサートホールのある《ガスタイク》へ行った。《ガスタイク》は、ドイツ文化の中心を象徴したいとのミュンヘン市民の願望を実現するために14年間の計画期間を経て完成した。この複合文化施設には、コンサートホール、多目的劇場、音楽学校、単科大学、図書館の5つの大きな機能が含まれている。

 《ガスタイク》にあるミュンヘン・フィルの本拠地であるコンサートホールは1985年にオープン。ホールの形状はベルリンのコンサートホール《フィルハーモニー》と同じく《ワインヤード・タイプ》。座席数は2387席(他にコーラス席が100)あり、《フィルハーモニー》より287席多い。《フィルハーモニー》と同様に音響設計には相当苦労があったようである。

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団はミュンヘンを本拠として活動しているオーケストラであり、マーラー、ブルックナー、リヒャルト・ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスを得意としている。1893年に創立されたカイム管弦楽団がその前身。

 1906年には、フルトヴェングラーがこの楽団を指揮して楽壇デビューした。1967年にルドルフ・ケンペ、1979年にセルジュ・チェリビダッケが首席指揮者に就任、現在は、クリスティアン・ティーレマンが首席指揮者を務めている。

 ミュンヘンには州立のバイエルン放送交響楽団が存在し、両者はハイレベルな競合関係にあるが、ミュンヘン・フィルはメディア受けとは一線を画した活動を貫き続けたといわれている。

指揮者 クリスティアン・ティーレマン
 C.ティーレマンは1959年4月にベルリンで生またドイツの指揮者。ピアノやヴィオラを学んだ後、19歳でベルリン・ドイツオペラに就職し、オペラとのかかわりが始まる。
 2000年に、ティーレマンはバイロイト音楽祭から招聘を受け、楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を振ってデビューし、2006年にも登場し、楽劇《ニーベルングの指環》を指揮した。
 ティーレマンのレパートリーの中心はワーグナーやリヒャルト・シュトラウスを中心としたドイツ・オペラであり、音楽監督を務めるベルリン・ドイツ・オペラでも新演出の導入に熱心に取り組んでいる。

 2004年にはジェームズ・レヴァインの後任としてミュンヘン・フィルの音楽監督に就任している。しかし、ミュンヘン・フィルの経営陣と対立が発生したことによりミュンヘンを去ることになり、2012年より、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者に就任する予定である。

マウリツィオ・ポリーニ
 最近のコンサートツアーで、2006年にウィーンでのリサイタル、2008には、ヴァルトビューネでC.アバドとベルリンフィルの共演(フィルハーモニーが火事で会場が変更になった)など、今回で3回もポリーニの演奏を聴いた。

 マウリツィオ・ポリーニは1942年にイタリアの生まれ。1960年の18歳の時に第6回ショパンコンクールで優勝したが、それから表舞台には登場せず、ミラノ大学で物理学を学び、ルービンシュタインやミケランジェリに師事して研鑚に勤めていたといわれている。
 8年後に登場した後の彼の活躍は目覚しいものがあり、ピアノ界のトップの座にある。最近の来日演奏家のソリストの中でポリーニのチケットの値段が最も高いことからもその実力と人気が伺える。

ミュンヘンフィルの演奏会
 演奏会場《ガスタイク》へ行って、 ホールの入り口でもらった演奏会のプログラムを見て一瞬目を疑った。これは別の日のコンサートの案内かと思ったほどである。メインの2つの演奏曲目が変更されていた。
 ブラームスの《ピアノ協奏曲第1番》がモーツアルトの《ピアノ協奏曲K488(第23番)》に、ベートーベンの《交響曲第4番》が《交響曲第3番 英雄》に。
 これは、M.ポリーニの意図であろう。2006年のウィーンでも、シューマンの《クライスレリアーナ》の予定がショパンの4曲に変更になったことがある。

 驚いているまもなく、団員が登場し、チューニングを行い、ティーレマンが登場し演奏が開始された。
 一曲目は、ベートーベンの《プロメテウスの創造物》。最初に聴いた音は、そのホールの音を強烈に印象付けるものである。《ガスタイク》では、私の席(前から二つ目のブロックの左側)には、固めの音がストレートに届いたように感じた。

 M.ポリーニが登場し、モーツアルトのピアノ協奏曲K488(第23番)が始まる。てなれたポリーニの演奏に、ティーレマンは寄り添うようにミュンヘンフィルをいざなった。ポリーニについては、高い完成度の故に、《完璧すぎる・冷たい・機械的》などの批判もあるが、2006年のウィーンでは、アンコールを5曲も聴かせるというポリーニが燃え尽きる姿を見て驚いた。
 ミュンヘンでは、豪華な組み合わせによる、淡々としたモーツアルトの演奏だった。
 私は、このメンバーによる力のみなぎったブラームスの《ピアノ協奏曲第1番》を聞きたいと期待していたので肩透かしを食った感が残ったが、望みが高すぎるというものであろうか。

 休憩の後、ベートーベンの《交響曲第3番 英雄》が演奏された。ティーレマンによる《第4番》を聴きたかったが、この演奏は、ティーレマンとミュン・ヘンフィルの特徴を遺憾なく発揮したもので、聴き応えがあった。演奏終了後、ミュンヘンの聴衆のティーレマンへ賛辞がホールいっぱいに充満しているのを肌で感じた。2011年にミュンヘンを去るティーレマンへの思いも強いのであろう。

エピローグ
 ポリーニとティーレマンとミュンヘンフィルの豪華な組み合わせによる演奏会や美術館・博物館を楽しんで、3月12日のミュンヘン中央駅11時19分発の国際特急(ICE)で極寒のミュンヘンを後にした。
 ICEの1等席は快適であり、中央駅の売店でワインを買わなかったことを悔やんだ。お昼を食べながら1973年のことを思い出していた。ミュンヘン中央駅から同じ国際特急で、プラハへ向かったこと、最初の訪問地だったロンドンでは、ロイヤル・フェスティバルホールで海外での最初のコンサートを体験したこと、ロンドンの秋葉原へ行ったこと、ミュンヘンで泊まったホテルが偶然にも同じヒルトンであったこと、など。
 37年も前の記憶は、どうしてこんなに鮮やかのだろう、などと考えていたら、車窓から見えた雪はすぐになくなった。途中、ニュルンベルクあたりで小雪を見、またすぐに雪はなくなり、列車はライプチヒの中央駅へと向かって走り続けた。

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