龍のコンサート三昧2010
【メルマガIDN編集後記 第195号 100601】

■龍のコンサート三昧
 【その5】音楽にゆかりのある旧東ドイツの都市ライプツィヒ
 ゲバントハウス管弦楽団の演奏会を聴いて一夜明けて、2010年3月13日の9時前にバスでホテルを出発し、 現地のガイドのFさんの案内でライプツィヒの街の探索に出かけた。ライプツィヒにもたくさんの顔があるが、私にとっては、バッハ、メンデルスゾーン、シューマンなど音楽にゆかりのある歴史的な街としてのライプツィヒのほかに、ベルリンの壁崩壊の端緒となった、東西両ドイツの統一の住民運動の発祥地としてのライプツィヒについても興味があった。今回は、この2つに焦点を絞ってライプツィヒを紹介してみたい。

トーマス教会

 
バッハ像(左)メンデルスゾーン像(右)

メンデルスゾーン・ハウス メンデルスゾーンが作曲した部屋


シュマンハウスの入り口 小学校が併設されている

 
1989年10月9日の月曜デモとモニュメント
【デモの写真は現地のポスターより:部分】

ライプツィヒ
 ライプツィヒは、ザクセン州に属するドイツの人口51万5千人(2008年2月現在)の都市。ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回る最大の都市で、旧東ドイツ地域ではベルリンについで2番目の大きさである。
 ライプツィヒは中世からの見本市によって発展した商業都市であり、印刷や出版の町でもあった。1409年にドイツで3番目に古いライプツィヒ大学が創設されて以後、学問と芸術の町としても、ドイツの中心的な都市となった。

 旧東ドイツ時代にライプツィヒは、ドレスデン、カール・マルクス・シュタット(現・ケムニッツ)とともに東ドイツの主要工業地域を形成した。ドイツ統一後は、旧西ドイツの企業も進出し、最近ではポルシェ社やBMWが工場を建設ところとしても知られている。

トーマス教会
 トーマス教会の正面に面した道路でバスを降り、近くにあるメンデルスゾーンの銅像(2008年に完成)を見てから、トーマス教会へ行く。まず、教会の南側の広場にある、のブロンズ製のバッハの像(高さは2.45メートル)を見る。
 1212年に建立されたトーマス教会は、バッハが長年の活動拠点とし、1723年から1750年までこの教会音楽監督を務めた。バッハは、1950年以来トーマス教会の内陣で永眠している。トーマス教会では、バッハの墓にお参りし、バッハやメンデルスゾーンの絵柄のステンドグラスを見た。トーマス教会は今日でも信仰と音楽に重要な役割を果たしている。

 トーマス教会を後にして街の散策に。土曜日の午前中は人通りも少ない。シューマンも通ったと言われる、カフェバウムに寄る時間はなく、手前を右におれて旧市庁舎のある広場へ出る。近くにある若き日のゲーテの像を見て、トーマス教会へもどる。そして再びバスに乗って メンデルスゾーン・ハウスとシューマン・ハウスへ行った。

メンデルスゾーン・ハウス
 1991年にクルト・マズアが提唱し《国際メンデルスゾーン財団》が設立された。この財団はメンデルスゾーンの晩年の家を修理・改装し、1997年11月に再び文化交流の場として開設した。復元された9つの部屋からなる住居に、メンデルスゾーンが作曲した部屋や直筆の楽譜などが展示されている。廊下の奥の右の部屋にはメンデルスゾーンの描いた水彩画も展示されている。定期的に日曜日には、音楽サロンでコンサートも行われている。

シューマン・ハウス
1840年9月にロベルト・シューマン、クララ・シューマンは結婚、直後にインゼル通りに移り住み、ここで4年を過ごした。シューマンはこの家で交響曲《春》やその他の作曲に取り組んだ。シューマン夫妻が生活していた住居が記念館となって公開されている。この中に、詳細な年譜が展示されており、シューマン夫妻とブラームスの関わりも読み取ることが出来、興味深く見た。

 シューマン・ハウスを後にして、バスは前夜にコンサートに行くために停車した同じ場所のアウグストゥス広場の中央を横切る道路に停車した。小雨模様の中で、昼間のゲバントハウスの姿を見、振り返ってオペラハウスの正面を見た。アウグストゥス広場の一角にある、1989年10月9日の《月曜デモ》の記念碑として作られた黄金の卵を見て、すぐ近くにある聖ニコライ教会へ行った。

聖ニコライ教会
 聖ニコライ教会は、1165年にロマネスク様式の教会が建てられたのが最初であり、西側入口の部分は創建当初の様式を残している。建物自体は16世紀の初めに改装され、18世紀末に内装が現在のように改められている。バッハはトーマス教会とともにここでも活動している。また、聖ニコライ教会は、東西ドイツ統一運動の拠点となった歴史的に重要な場所でもある。

ライプツィヒ1989年10月9日の《月曜デモ》
 今回のツアーでライプツィヒが訪問先に入っており、ライプツィヒに対して興味が高まっていた時期に、NHKのテレビで『ライプツィヒの奇跡』を見た。これは、ベルリンの壁崩壊から20周年となるのを機に特集されたもの。1989年に《月曜デモ》と呼ばれる反体制運動が起き、旧東ドイツにおける民主化運動の拠点となったライプツィヒについて、ドキュメンタリー風に特集を組んだものである。

 東ドイツの反体制団体の呼びかけで、1982年9月から毎週月曜日に聖ニコライ教会で行われる《平和の祈り》の後、市内をデモ行進するようになった。ライプツィヒの月曜デモはその後、全国へ広がっていったデモの原点ともなった。当初は数百人規模だったデモが次第に大きくなり、記念すべき1989年10月9日の月曜デモには7万人が参加した。

 手に蝋燭を持つと火が消えないよう両手を使うことになり、棒や石を持つ余裕がなく、デモは非暴力で行われた。『われわれが人民だ』と口々にシュプレヒコールを唱えながら、7万人にふくらんだデモ隊は、中央駅にさしかかり、8千人の治安部隊と直接対峙したが、大きな衝突もなく、駅前を通り過ぎ、環状道路を進んで、秘密警察の本部が入っている前を緊張しながら通り過ぎ、流血のないデモが行われた。
Fさんにデモのルートを教えてもらったが、デモが行われた環状道路は予想していたより短いループである。当夜は、環状道路だけでなく、街じゅうに人があふれていたことが想像できる。

 月曜デモの成功からわずか9日後の10月18日に、ホーネッカーが18年間座り続けた最高権力者の座を追われた。一般にはベルリンの壁が崩壊した11月9日(東独閣僚評議会が市民の国外旅行と移住の為の出国を自由化すると発表)が、東西ドイツ統一の重要な日とみなされているが、ドイツ国民にとって10月9日が重要な日だったといえよう。ドイツ再統一後、ライプツィヒは《英雄都市》と呼ばれた。

 ライプツィヒ市民は今でも、1989年秋の革命に貢献できたことを誇りとしているが、そのあと彼らを待っていたのは厳しい現実だった。多くの人たちが職を失い、一から出直すことを余儀なくされた。Fさんのご主人は、1989年当時は学生だったそうで、東西統一後の格差を心配し、喜んでばかりもいられなかった、と述懐しているそうである。
先の大戦で壊滅的な打撃を受けたライプツィヒの町並みも、手間をかけて、修復、取り壊し、新築が行われた。中心街は賑わいを取り戻したものの、バスの車窓から見るライプツィヒの市内には、再建途上の場所や、まだ手付かずの所も見受けられる。08年にドレスデンを訪れたときも感じたことであるが、旧東ドイツに属した街の傷の深さを実感した。

エピローグ
 当初のツアーの案内では、バッハ博物館も訪問の予定に入っていたが、2年3ヶ月に及ぶ改装の終了日が延期になり、代わりにシューマン記念館や旧市庁舎の訪問が追加された。3月19日に帰国して、22日の新聞に、改装を終えたバッハ博物館が新装オープンしたことが報じられていた。
 にぎわい始めた土曜日の昼頃、街なかにあるレストランで昼食をとった。前日から我々を案内してくれたFさんは、願いを聞き入れて博多弁で別れの挨拶をして帰って行った。
 前日の夕方に列車でライプツィヒ中央駅に着いて、夜にはゲバントハウス管弦楽団のコンサート、次の日の午前中にライプツィヒの音楽ゆかりの場所を訪れた。昼食のあと、13時30分頃に、トーマス教会の正面で待っていたバスに乗り、次の訪問地であるベルリンへ向かった。

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