龍のコンサート三昧2010
【メルマガIDN編集後記 第196号 100615】

■龍のコンサート三昧2010
【その6】ベルリン・フィルのコンサートで《ヴェルディのレクイエム》を聴く
 2010年3月13日の1時半頃に、ライプツィヒのト-マス教会の前をバスで出発し、ルート14からルート9を経て、2008年にドレスデンからベルリンへ向かった時と同じところで高速道路をおりて市内に入った。ベルリンの宿であるベルリン・ヒルトンに夕方の4時半頃に到着した。ホテルは、コンチェルトハウス・ベルリンの道路を挟んだ南側に位置している。
 チェックインをして、しばらく休んで、コンチェルトハウス前の広場を散歩して、夕方の6時からホテルで夕食をとり、7時にバスで小雨の中を当夜のコンサート会場である《フィルハーモニー》へ向かった。

ベルリ・フィルの本拠地《フィルハーモニー》 玄関 【撮影:2006年】


ベルリ・フィル
2010年3月のプログラム 

《フィルハーモニー》の客席配置図 
【撮影:2010年 会場で】


ヴェルディの《レクイエム》の演奏終了後の挨拶
【写真をクリックすると拡大します】


歓声に応えるヤンソンスと独唱者たち

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、旧西ベルリンにある「フィルハーモニー」に本拠を置くオーケストラ。 設立は1882年5月で、ハンス・フォン・ビューローが初代の常任指揮者となった。歴代の有名な指揮者を下記に示す。

ハンス・フォン・ビューロー(常任指揮者 1887-1892)、アルトゥール・ニキシュ(常任指揮者 1895-1922年)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(常任指揮者 1922年-1954)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(終身指揮者・芸術監督1955-1989年) 、クラウディオ・アバド(首席指揮者・芸術監督 1990-2002年) 、サイモン・ラトル(首席指揮者・芸術監督 2002年-)。

 クラウディオ・アバドは前評判の高かったロリン・マゼールを破って就任し、自身の健康面の問題で2002年のシーズン限りで辞任した。後任の最大有力候補はサイモン・ラトルとダニエル・バレンボイムの2人だったが、楽団員による投票によりラトルが常任指揮者に選ばれた。

 今回は、1983年よりコンサートマスターを務め、2008年のバルトビューネの舞台にいた安永徹さんの姿は見えず(2009年2月に退団)、新たにコンサートマスターに就任した樫本大進さんも登場しなかった。

ベルリ・フィルの本拠地《フィルハーモニー》
 《フィルハーモニー》はハンス・シャロウンの設計により1963年10月に完成した、ベルリン・フィルの本拠地となっているコンサート・ホール。
 1986年に完成したサントリーホールと同じ《ワインヤード》形式のホールで、演奏席の背後に260席が配置されており、完成当時はユニークなホールとして注目された。全座席数は2,200席。
 柿落としは、1963年10月15日にカラヤン指揮、ベルリン・フィルの演奏でベートーヴェンの《第九》が演奏された。完成当初の外観は、現在の黄色い外壁の仕上げとは異なっており、サーカスのテントに似ていることから、ベルリンっ子たちは《カラヤンのサーカス小屋》と呼んだ。

 《フィルハーモニー》については、《龍のコンサート三昧2006》の第3回に詳細に紹介しているので興味のある方はご覧いただきたい。

指揮者のマリス・ヤンソンス
 マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)は1943年に生まれのラトビアの指揮者。今回あらためて生年月日を調べたら、中堅の実力派の指揮者だと思っていたのが間違っており、年齢的には円熟の域に入っているいたことがわかった。

 レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めたアルヴィド・ヤンソンスを父としてリガで生まれた。レニングラード音楽院でピアノ、ヴァイオリン、指揮を学んだ後、ウィーン国立音楽アカデミーに留学。

 1971年、カラヤン国際指揮者コンクールで2位の成績に輝く。1973年からムラヴィンスキーの助手として、レニングラード・フィルの副指揮者を務め、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団の首席指揮者を経て、2003年よりバイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任、さらに2004年からはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任も務めるようになり、ヤンソンスはふたつのヨーロッパ有数の名門オーケストラの常任指揮者を兼任している。

ヴェルディの《レクイエム》
 レクイエムとは、カトリック典礼に用いられる《死者のためのミサ曲》のこと。
 ヴェルディがレクイエムの作曲を構想するに至ったのは、イタリアの作曲家で敬愛するロッシーニの死去(1868年)が契機となっている。ロッシーニの一周忌に、イタリアを代表する作曲家の共作による《レクイエム》を墓前に捧げたいと画策し、一旦合意が得られて、自分の分担部分を作曲するが、他の12名の作曲は実現しなかった。
 失意の中、ヴェルディは歌劇《アイーダ》の作曲に没頭するが、1873年4月にヴェルディが崇敬する詩人、アレッサンドロ・マンゾーニが不慮の死を遂げたのを悼んで全曲を作曲する。

 マンゾーニの一周忌にあたる1874年5月に《レクイエム》を捧げ、ミラノのサン・マルコ教会で初演が行われた。指揮にはヴェルディが自ら当たり、スカラ座から厳選された120人の合唱団と110人のオーケストラが演奏に当たった。

 ハンス・フォン・ビューローは「これはレクイエムの衣装を纏った、ヴェルディの最も新しいオペラにすぎない」という見解も述べたが、賛辞を贈り、一般に「イタリア・オペラとは相容れない」、と言われていたドイツ系の音楽家の間でも、この作品は極めて高く評価された。

当夜の演奏
 このホールを訪れるのは2回目なので、複雑なアクセスも苦にしないで自分の席を見つけることができた。演奏者たちが入場する時から、この演奏会に対する聴衆の期待の大きさが感じられた。

 ベルリン・フィルで、ヴェルディのレクイエムは過去15年間にアバド(1995年、2001年)とメータ(1997年)だけが指揮しているレパートリーだそうである。
 当夜のヤンソンス指揮の演奏について、現地の新聞批評は全紙が言葉を尽くして絶賛している。 ソリストについても、有名スターではないものの、揃ってトップ・レベルの歌唱を示し、全員が完璧な出来映えを示した充実度満点だったと評している。ヤンソンスがミュンヘンから連れてきバイエル放送合唱団(ヤンソンスはこの合唱団とも密接な関係にある)ついても、「宇宙的な広がりを与えることに成功した」、と讃えている。

エピローグ
 2008年にベルリンへ行った時には、ベルリン・フィルの演奏会場《フィルハーモニー》が火事になって、会場が、野外コンサート会場《ヴァルトビューネ》に変更になった。マウリツォ・ポリーニのピアノの、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルの演奏でベートーベンの《ピアノ協奏曲第四番》を聴くのを楽しみにしていたが果たせなかった。そのことが、今回のコンサートツアーに行こうと思った理由のひとつだったが、今回は無事に目的を達することが出来た。

 演奏会の満足度を、演奏曲目、オーケストラ、指揮者、独奏者、演奏の出来、ホールの雰囲気、音響、席の位置、聴衆の集中度と反応などの8軸のレーダーチャートで表現してみる。これらのすべてを望むのは無理というものだが、今回のヴェルディの《レクイエム》の演奏会は、すべての軸で高得点をマークし、バランスの取れた満足度の高い演奏会だった。

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