龍のコンサート三昧2010
【メルマガIDN編集後記 第197号 100701】

■龍のコンサート三昧2010【その7】三回目のベルリン訪門
 2010年3月13日に《フィルハーモニー》の大ホールで、ヤンソンスの指揮でヴェルディの《レクイエム》を聴いて満足し、幸せな気分でベルリンの初日を終えた。ベルリンの2日目の予定は、午前中にベルリンの観光、午後は自由行動、夜にベルリン国立歌劇場管弦楽団(ベルリン・シュターツ・カペレ)の演奏会となっていた。

ベルリンの壁博物館
【リーフレット】

壁の断面モニュメント(第4世代)
【ウエスティングランドホテルの前】


心が作る人種の壁を壊すことが大切
【イーストサイドギャラリー】


コーミッシュオパーの外観


ブランデンブルク門 西面 勝利の女神ヴィクトリアは背面が見える


ブランデンブルク門 壁面のレリーフ

ベルリン
 3月14日の10時にバスでベルリンの観光に出発。バスの中で現地のガイドの方にベルリンについての説明を聞いたが、それに少し追加してベルリンを紹介する。
 ベルリンは、ドイツの北東部に位置する都市で、ドイツ連邦共和国の首都である。歴史をさかのぼると、ウィーンがドイツの中心と見なされていた時期があったが、1868年に新統一ドイツの首都がベルリンに確定した。
 ベルリンは、1871年のドイツ帝国成立から1945年の第二次世界大戦の終結まで、ドイツ国の首都だった。第2次大戦戦後の冷戦時代には東西ベルリンに分断され、1990年の統一以後は再びドイツの首都となった。現在の市域の面積は892平方km、市域の人口は343万人(2008年8月現在)である。

ベルリンの壁
 第2次世界大戦後、敗戦国のドイツが東西に分断されたのと同時に、周囲を東ドイツに囲まれたベルリンは《赤い海に浮かぶ自由の島》となり、ベルリンも東西に分断された。
 1961年8月にソ連統治下の東ドイツはベルリンの境界線を壁で封鎖した。壁はすべて東ドイツ領内に建設され、順次強固なものとされた。東西を遮断するために作られた壁は4つの世代に分類される。
 第1世代:ブロック式 1961年8月 人の背丈ほどの高さ
 第2世代:積み上げ式 1961年11月 低くて簡単に乗り越えられそう
 第3世代:板塀式 1968年 コンクリート板を積み上げ
 第4世代:最新型 1976年 厚さ30cmの鉄筋コンクリート、高さ3.6M

 東ドイツ政府は、1989年11月9日に東ドイツ市民に対して旅行の自由化(旅行許可書発行)を発表した。このことによって、ベルリンの壁は実質的に意味を持たなくなり、その翌日の11月10日未明になると、ハンマーや建設機械により、壁の破壊作業をはじめられ、ベルリンの壁は崩壊した。さらに、1990年10月3日に東西ドイツは正式に統一された。
 かつて西ベルリンを囲んでいた壁の大半は壊されて、一部が記念として保存されているのみである。

ベルリンの壁博物館
 路上にある、東西分断時代に外国人のみが通行を許可された国境《チェックポイント・チャーリー(レプリカ)》を見て、ベルリンの壁博物館へ行った。
 ベルリンの壁博物館は、1961年8月に東西の境界線が有刺鉄線で遮断された時から1989年11月9日に開けられるまでの、東西ベルリンに関する記録が写真や現物で展示してある。東から脱出を試みた数多くの人々の脱出方法、脱出に使用された道具等も多く見ることが出来る。ベルリンの壁博物館のリーフレットによると、西ベルリンを包囲した壁の全長は155km、東西ベルリンの分割ラインの長さは43.1kmと記されている。

イーストサイドギャラリー
  2008年にベルリンを訪れた時には《ベルリンの壁跡》を、そして、今回は《イーストサイドギャラリー》を見に行った。
 かつては西ベルリンを包囲し155Kmも伸びていた壁も、今は一部を残すのみとなった。
 1989年に壁が崩壊した後、シュプレー河畔にあった壁の1部を1.3Kmにわたって残し、世界各国の20名のアーティストが壁に絵を描くプロジェクトが実現した。ここには、共産主義を揶揄する絵や、東から西へ脱出する方法などが現代アートとして描かれている。
 しかし、この壁のギャラリーは屋外にあるために痛みがひどく老朽化が進んでいた。また、心無い落書きなどもあり、2009年にベルリンの壁崩壊20周年を記念し、修復事業が行われた。
 日本人の画家、宮武 貴久恵さんが高さ3.5M、長さ14.4Mの壁画を描いており、この度の修復事業にも招かれ、壁画を修復されたそうである。

コーミッシュオパーの外観の写真
 イーストサイドギャラリーをあとにして、ブランデンブルク門で下車、そのあと市内を一巡し、昼過ぎにホテルへ戻る。ホテルで昼食の後、寒い小雨の中を出かけた。

 まず、ホテルから数ブロック先にある《コーミッシュオパー》の外観の写真を撮影した。2006年にベルリンを訪れたときからベルリンにあるコンサートホールとオペラハウスの写真を撮影してきたが、これで一応の目的を達したことにした。

ブランデンブルク門のレリーフ
 依然として寒さは一段と厳しく、フードをかぶり、傘をさしてブランデンブルク門へ歩いていった。午前中に目に止まっていた、門の中の壁にあるレリーフの写真を撮るために。

 ブランデンブルク門は、都城都市だったベルリンに18箇所あった都城の門のひとつ。1868年に城壁が取り壊される中、ブランデンブルク門が唯一残された。

 ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1791年8月に竣工した。
 門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライアの門を模した、砂岩で出来た古典主義様式の門。門の高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11m。

 1961年に東ドイツがベルリンの境界線を封鎖し、門の前を壁が通った。門は東ベルリンに属し、東ベルリンの西端の行き止まりとなっていた。1989 年にベルリンの壁が崩壊し、門の周辺が整備され、2000年12月からブランデンブルク門には巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われ、現在は観光の名所となっている。

 寒さに震えながら、門の内部の壁にあるレリーフと門の西側の軒(列柱の上部)にあるレリーフの写真を撮影した。

エピローグ
 最近はヨーロッパに行ったときに《ヨーロッパで出会った龍と仲間たち》を撮影し、私のホームページで紹介してきた。ブランデンブルク門のレリーフは、ウィーンのミラベル門やドレスデンのツヴィリンガー宮殿で見た彫刻と通じるものがあると感じる。ブランデンブルク門のレリーフの写真は手元に残ったが、これらの謂れはまだ解明できていない。

 当日の午後の行動は早めに切り上げて、夜に予定されている、ベルリン国立歌劇場管弦楽団(ベルリン・シュターツ・カペレ)の演奏会に備えた。

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