■龍のコンサート三昧2010 【その10】アムステルダムでの2つのコンサート
今回のコンサートツアーで最後に訪れたのがアムステルダム。2010年3月15日の昼過ぎに到着し、18日の午後に出発するまで滞在した。その間盛りだくさんの楽しみを欲張った。途中デン・ハーグにも行って美術館を訪れたことは前号で紹介した。今回は世界的に有名なコンサートホール《コンセルトヘボー》で聴いた2つのコンサートについて紹介する。
コンセルトヘボウを遠望する
マタイ受難曲の演奏終了後の全景
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F.P.ツィマーマンとB.ハイティンク
ブラームスの《ヴァイオリン協奏曲》の演奏終了後
B.ハイティンク ショスタk-ヴィッチの第15番交響曲の演奏終了後
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コンセルトヘボウ(ホール)
コンセルトヘボウはオランダのアムステルダムにあるコンサートホール。戦前からの姿をそのままに残されている音響の優れたコンサートホールとして知られ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地となっている。
1883年に実施されたコンペの結果、オランダ乗馬学校を設計したA.L.ファンとヘントの案が採用された。後にこの二人は共同でアムステルダム中央駅の設計に携わっている。
ネオ・ルネサンスと新古典主義を折衷したファサードが特徴的なホールは1888年4月に落成した。大ホールは座席数2037席で、残響は観客なしで2.8秒となっている。
アムステルダム市内はほとんどが帯水層上の干拓地であり、当初より慢性的に地盤沈下に悩まされていた。倒壊寸前の危機的状況を迎えた1983年に帯水層の下にコンクリートで基礎を作り、支持杭も金属製のものに置き換える大工事が行われた。
その後1988年には、東翼(向かって左)に補強や旧構造の保護も兼ねて2層建ての鉄柱と大ガラスによる新エントランスが増築された。この部分にはインフォメーション・チケットカウンターやカフェも入っており、ホールへの入り口もここが使われている。
《マタイ受難曲》の演奏会
2010年3月15日にアムステルダムに到着し、バスで市内の要所を案内してもらって、ホテルにチェックインし、夕方の食事の時間までフリータイムとなった。早速、あくる日のオランダ・バッハ・オーケストラ&合唱団演奏会による《マタイ受難曲》のチケットが入手できるかを確かめるために、ホテルのフロントに行った。
このチケットはツアーに出かける前に手当てできたが、ツアーの最終段階での体調がよければ現地で調達しようと考えていた。
フロントの女性がネットで検索してくれて、席の残はあるとのこと。ネットで予約しなさいとページを示してくれたが、インプットする内容が多く、要領を得ないところもあり、結局、コンセルトヘボーのチケットの窓口まで行くことにした。幸いにもホテルとコンセルトフェボーの間にはトラム(電車)も通っており、歩いても行けるところに位置関係にあった。
難なくチケットを入手することが出来た。窓口の女性は、このチケットで、行きと帰りのトラムに乗ることが出来ると教えてくれた。アムステルダムでは、コンサートのある夕方は、ネクタイを締めたトラムの乗客が増えるそうである。
次の日の3月16日の夕方、《マタイ受難曲》のコンサートに出かけた。
古楽器を使ったこのオーケストラの音は柔らかく、このホールの音響の良さを実感できた。休憩を挟んで、長時間の演奏のあと、多少のくたびれと満足感に浸りながら、たくさんの聴衆だった人達と共にトラムに乗って戻った。
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
1888年にコンセルトヘボウの専属オーケストラとしてアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は誕生した。このオーケストラが有名になったのは、24歳の若さで第2代常任指揮者となり、その後半世紀に渡ってコンセルトヘボウ率いたウィレム・メンゲルベルクの功績が大きい。
1938年からメンゲルベルクと並んで首席指揮者を務めていたエドゥアルト・ファン・ベイヌムが就任、1959年に57歳のベイヌムが亡くなり、オランダ人指揮者ベルナルト・ハイティンクが常任指揮者に抜擢された
1988年、創立100周年を迎えたコンセルトヘボウはベアトリクス女王より《ロイヤル》の称号を下賜され、現在の名称に改称された。創立100年を期にハイティンクは常任を退き、リッカルド・シャイーが後を継ぎ、2004年9月からはマリス・ヤンソンスが常任指揮者となっている。
ベルナルト・ハイティンク
ハイティンクは1929年生まれのオランダの指揮者。1955年にオランダ放送管弦楽団の次席指揮者に就任。1961年から1988年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1967年から1979年までロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のそれぞれ首席指揮者に就任。
1978年から1988年までグラインドボーン歌劇場の、1987年から1998年まで英国王立歌劇場の音楽監督を務める。2002年からドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任した。2006年からシカゴ交響楽団の首席指揮者に就任。
ハイティンクには縁があり、1995年にボストンでマーラーの交響曲第9番を、2006年にはウィーンで、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番を聴いている。
F.P.ツィマーマンによるブラームスの《ヴァイオリン協奏曲》の演奏
ツィマーマンは1965年2月にドイツのデュースブルク生まれのヴァイオリン奏者。1979年に14歳でルツェルン音楽祭に出演。1981年にはソビエトでデビュー、1984年にはロリン・マゼール指揮ピッツバーグ交響楽団の演奏会でアメリカデビューを果たす。1983年6月に若杉弘指揮ケルン放送交響楽団のソリストとして初来日している。
ブラームスは長い期間(作曲を開始して14年、萌芽から数えれば21年間とも言われる)かけて第一番の交響曲を作曲し、そのあと短期間で交響曲第二番を作曲し、その翌年の45歳の時にヴァイオリン協奏曲を作曲した。彼が最も充実した時期に作曲された曲といえる。
長い序奏の後ヴァイオリンが登場し、主題の提示、その再現、カデンツアを聴いているとあっという間に1楽章が終了、2楽章の冒頭でもオーボエが主題を奏でる間、ツィマーマンは待たされてヴァイオリンが引き継ぐ。3楽章では、ヴァイオリンが冒頭から活躍し、曲は佳境に入り、最後は力強く曲を終える。
演奏のでき出来栄えはツィマーマンとハイティンクの写真の表情より想像することにする。
ショスタコーヴィッチの交響曲第15番の演奏
作曲時期は1971年。交響曲第10番以来の伝統的な4楽章の交響曲である。演奏される機会は少ない。今回初めて聴いたが、ソロなどが目立つ室内楽的なオーケストレーションや、各楽章にロッシーニ、ワーグナー、ハイドン、自作の交響曲からの引用などもあり、聴いていて楽しいところもあり、ホールの音を楽しむのにも適した曲だった。
エピローグ
世界の音楽ホールの中で是非聴いてみたい4つのホールがあった。ウィーンの《ムジークフェラインザール》、ベルリンの《フィルハーモニー》 、ボストンの《シンフォニーホール》をすでに聴いて、残されていたアムステルダムの《コンセルトヘボー》を、ヨーロッパへの3回目のコンサートツアーで聴く機会に恵まれた。
2010年3月9日に成田を発った今回のコンサートツアーは、3月18日の昼過ぎに成田へ到着することですべてを終えた。5つの都市を訪れ、現地でチケットを調達したものも含めて6つのコンサートを聴き、ミュンヘンとアムステルダムとデン・ハーグでは、美術館を楽しむことも出来た。
今回のツアーで見聞きしたことを綴って4月1日に始めた《龍のコンサート三昧2010》は、今回をもって最終回とする。