故郷と家族を愛し続けたシャガール
【メルマガIDN編集後記 第202号 100915】

 シャガールといえばパリ・オペラ座の改装に伴い描いた天井画などが思い浮かび、《パリ》という先入観があった。もっとも97年の生涯で、フランスに住み活動したのが計五十有余年に及ぶので、もっとものことだが、上野の東京芸術大学大学美術館で開催されている《シャガール ロシア・アバンギャルドとの出会い 2010年7月3日~10月11日》では、故郷と家族を愛し続けたシャガールの世界観を色濃く読み取ることができる。


写真1 シャガール展チラシ
絵は《ロシアとロバとその他のものに 1911年》
シャガール独自の世界を示した1910年代の代表作
ロシアの民俗的な図像とキュビスムの様式
フォーヴィスムの色彩が見事に結実している


写真2 《日曜日 1952-54年》 
画面のふたつの顔は、シャガールとブロドスキー
ブロドスキーはパリで2度目の結婚相手となった
地上にはパリの建造物がちりばめられ
画面左上には、故郷ヴィテブスクの情景が描かれている

【写真はシャガール展チラシより】

展覧会の内容
 今回の展覧会では、仏ポンピドー・センターのシャガールコレクションから、シャガールの作品約70点、ロシア前衛主義の巨匠たちの作品約40点が展示してある。
 シャガールの人生を追いながら、ロシア美術史にシャガールを位置づけようとするもので、シャガール自身と故国ロシア、彼の世界観、家族、想像の世界とのつながりを検証し、20世紀の巨匠シャガールへの理解を深めることを意図している。

 本展では、同時代に活躍したマレーヴィチ、プーニー、カンディンスキーらロシア出身の巨匠たちもあわせて紹介されており、日本ではまだあまり知られていないゴンチャローワとラリオーノフの作品が日本で初公開されている。
 本展では、本人が望んでいたとおり、シャガールをロシア・アヴァンギャルドの作家の傍らで紹介する、というところに特徴があるといえよう。

第1章 ロシアのネオ・プリミティヴィスム
 シャガールは1887年、ヴィテブスク郊外のユダヤ人街に生まれた。シャガールはこの街に深い愛着を感じ、幻想的に描いた。ヴィテブスクは、住人や家々、動物たちとともに、彼の作品全体に大きな位置を占めることになる。
 フランスの前衛芸術家たちがアフリカやアジアなどの他文化にインスピレーションを求めたのに対し、彼らは自国の芸術に原始性を見いだした。20世紀初頭のヨーロッパ諸国の動向から一線を画している。

第2章 形と光 -ロシアの芸術家たちとキュビスム
 シャガールは1911年にパリへ行き、ラ・リュッシュ(モンパルナスにあった集合アトリエ)に居を定め、多くの名だたる文学者と友情を結ぶ。
 シャガールは、キュビスムやオルフィスムと出会ったが、ロシアの田舎の力強さと色彩を失うことはなかった。パリで描いた初期の傑作《ロシアとロバとその他のものに》(1911年 写真1)では、 教会などのモティーフはロシアへの郷愁に満ちており、民俗芸術を思わせる素朴な図像、キュビスムにヒントを得た形体把握、フォーヴィスムに学んだ強烈な色彩によって、シャガール独自の世界を示した1910年代の代表作。

第3章 ロシアへの帰郷
 1915年7月、シャガールは婚約者ベラ・ローゼンフェルトと結婚。以後、二人を主題にした連作が制作される。
 1918年、シャガールは故郷ヴィテブスクに美術学校を設立し運営することを依頼され、モスクワやペトログラードから芸術家を招来する。内部での対立もあり、1920年、シャガールは故郷を去り、モスクワへと旅立つ。

第4章 シャガール独自の世界へ
 モスクワに居を定めた後、ベルリンでの短期滞在を経て、1923年、シャガール一家はパリへ移住する。以後、シャガールは、芸術の諸運動から距離を置き、独自の道を歩むことになる。
 文学的な一連の版画作品に取り組む一方で、夢と現実が混ざり合い、憂愁がただよう大きな絵画作品を制作する。

 1940年、ナチスドイツがパリを占領し、《反ユダヤ法》が成立。身の危険を感じたシャガールは翌41年、ニューヨーク近代美術館からの招きで妻ベラとともにアメリカへ亡命する。
 亡命中の1944年9月にベラが亡くなる。長い悲嘆のなかで、シャガールは1933年の《サーカスの人々》の左部分を描き直し、タイトルを《彼女を巡って》とした。鳩や軽業師、若い夫婦といった、晩年の絵画で繰り返し現れるモチーフが、打ち砕かれた幸福の象徴として、シャガールとベラの上を舞っている。

第5章 歌劇「魔笛」の舞台美術
 シャガールはロシア時代に、ストラヴィンスキー作曲のバレエ「火の鳥」の舞台裏と衣裳の下絵の制作などで舞台との関わりがあった。フランスに戻った後、1963年にはパリ・オペラ座の改装に伴い、アンドレ・マルロー文化相に天井画を依頼される。ここでシャガールはドビュッシー、ラヴェル、モーツァルトらの音楽にインスピレーションを得て制作を行なった。

 メトロポリタン歌劇場は、1964年、新しい建物のこけら落としの上演のために、シャガールにモーツァルトの歌劇《魔笛》の装飾と衣裳の素案を発注、また翌年には劇場用の二つの壁画も依頼した。
 シャガールはしきたりにとらわれず、寺院やピラミッドは傾き、表現はアラベスク調で、絹やビロードの布切れ、金銀の塗料など華やかな素材が飾られ、装飾的・演劇的用途を満たしていた。
 登場人物の衣裳は、自由で明けっ広げなもので、シャガール作品おなじみの要素である、生い茂る植物、子供っぽい太陽、ヴァイオリン、鳥、翼の生えた人物などが下絵に持ち込まれている。

エピローグ
 ソ連が成立した1922年に故国を去ったシャガールは、1973年6月に半世紀ぶりに招かて帰国することになる。ところが出発の2日前、パリの航空ショウーでソ連の超音速旅客機《ツポレフ114》が墜落するという大惨事が起きた。シャガールは、フランス機への乗り換えるようにとの勧めを無視して、敢然とソ連機で旅立ったという。これは、シャガールが故国を愛していたエピソードとして、新聞で紹介されていた。
 実は、1973年6月のパリの航空ショウーで、コンコルドに対抗してソ連が開発した114が機体をゆすりながら低空飛行するのを実際に見た。正確にいうと、この114はデモ飛行を終えて、ソ連へ帰国する途中に墜落した。翌日の現地の新聞に墜落して破壊した写真が大きく掲載されていて、びっくりしたことを記憶している。
 この時シャガールは80歳代の後半であり、時代を共有したことを知り、シャガールへの近親感が増した感じがする。

 なお、シャガールの説明については、チラシ、会場での説明パネル、シャガール展のホームページなどを参考に要約しました。

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