ジャン・リュック・ゴダール監督の映画《軽蔑》とカプリ島
【メルマガIDN編集後記 第205号 101101】

■ジャン・リュック・ゴダール監督の映画《軽蔑》とカプリ島
 ジャン・リュック・ゴダール監督の映画《軽蔑(1963年)》をテレビで見た。ゴダールはヌーヴェルヴァーグの旗手とも言われている監督であり、1959年に《勝手にしやがれ》で鮮烈にデビューした。《軽蔑》はその4年後の作品である。ゴダールの映画に期待して映画館に行ってから46年経ったことになる。映画の後半ではカプリ島が舞台になっており、1992年の秋にカプリ島へ行くきっかけとなったことが思い出された。私の記憶の中では、ヌーヴェルヴァーグとゴダールの《軽蔑》とカプリ島の関係は密接につながっている。


カプリ島 別荘とおぼしき白い建物が点在している


ホテル《ラ・パルマ》の正面(撮影:1992年)
ネットで紹介されている外観とほとんど同じである


会議風景


懇親会に登場したアトラクションのグループ


散歩しているときに新婚さんが笑顔で応じてくれた


ヌーヴェルヴァーグ
 この言葉を映画に対する呼称として用いたのは、映画ミニコミ誌《シネマ58》の編集長だったピエール・ビヤールが同誌の1957年2月号において、フランス映画の新しい傾向の分析のために使ったそうである。ヌーヴェルヴァーグとは、下積み経験も少なくしてデビューした若い映画監督達による1950年代末から1960年代の中頃にかけて制作された映画の作風を指す。

 私見では、ロジェ・ヴァディムの《素直な悪女(1956年)》やルイ・マルの《死刑台のエレベーター(1957年)》などが、ヌーヴェルヴァーグの初期の作品と位置づけられると思う。
 前者は、ロジェ・ヴァディムがブリジッド・バルドーが22歳の時(18才の時に結婚している)に制作した映画。後者は、ルイ・マルが自己資金で25歳のとき監督デビューし制作したもので、マイルス・デイヴィスの即興的なサウンドトラックとともに、ジャンヌ・モローの魅力は忘れられない。

 1959年には、ゴダールの《勝手にしやがれ》、クロード・シャブロルの《いとこ同士》、フランソワ・トリュフォーの《大人は判ってくれない》など、ヌーヴェルヴァーグを代表する作品が公開された。この年は《ヌーヴェルヴァーグ元年》と言われている。
 ヌーヴェルヴァーグでは、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影、同時録音、即興演出、ジャンプカット(画面の連続性を無視して、カットを繋ぎ合わせること)など、作品に共通した手法が用いられている。

 1961年に上京し、主に50年代の洋画を、伊勢丹の前にあった日活名画座でたくさん見た。代金が60円の時代である。わが国では、1958年に《死刑台のエレベーター》が、1960年になって《ヌーヴェルヴァーグ元年》と言われている作品が封切られており、いわゆる名画と言われるものを見ているなかに、ヌーヴェルヴァーグの作品も含まれていた。

映画《軽蔑》
 この映画では、映画のプロデューサー、脚本家、映画監督などの葛藤に脚本家の妻であるブリジッド・バルドーが絡む。いわば、内輪を映画にした作品ある。この映画をテレビで冷静になって見ると、4年前のゴダールの作品《勝手にしやがれ》のひたむきさや鮮烈なイメージは少ない。よく言えば、映画作りにゆとりがあるともいえるが、商業主義の一面も垣間見える。

 とはいえ、画面のそれぞれは見ていて飽きないものがあり、時々登場する白い彫刻の目と口の色使いなどには、ゴダールの《冴え》が見てとれる。この映画は、1964年度のキネマ旬報のベスト・テンの第7位になっている。(この年の第2位は、トルフォーの《突然炎のごとく》)

 いくつかの資料から主演のブリジッド・バルドーの年齢を推測すると28歳の時であり、その存在感は抜群である。アメリカのプロデューサー役の顔をどこかで見た記憶があると思って調べたら《シェーン》のジャック・パランスであることがわかった。

 映画の後半で劇中劇の映画の撮影現場がカプリ島に移る。リゾート地の、明るい太陽と青い海と緑の島の白い建物が鮮烈な印象として記憶に残っていた。

ミラノからローマを経てカプリ島へ
 1992年の秋にカプリ島へ行った。建築研究所からK国立大学の助教授となったIさんから、イタリアで開催される会議に出席してほしいとの要請があった。イタリアのどこですか、カプリ島、いいですよ、と答えてから、ところで何をするのですか、と尋ねた。今だから言えるひどい話である。

 日本の建築研究所とイタリアの同じ機関が共同研究を行なっており、毎年交替で会議を開催していた。その年は、カプリ島で、《建築と情報》をテーマとする会議が予定されていた。民間企業で取り組んでいる事例のプレゼンテーションをして欲しいというのが、私への要請だった。

 日本から行ったメンバーがミラノの空港に集合し、その夜は全員で会食をしながら今後の予定を確認。あくる日の、ミラノにある情報化された建築の事例を見学することからスケジュールが始まった。

 昼間は仕事に専念、夜は、食事を楽しむ人たちと別れて、M先生と一緒にミラノのスカラ座へコンサートを聴きに行った。オペラシーズンの開幕前で、サンクトペテルブルグフィルのチャイコフスキーを聴いた。

 ミラノからローマへ移動し、ここでも事例の調査をした。そして夜は、聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の演奏会で、《ロミオとジュリエット》を聞いた。

イタリア南部のリゾート地 カプリ島
 予約した飛行機が運休になり、 ローマから列車でナポリへ。ナポリから船でカプリ島へ渡る。ナポリ湾に浮かぶカプリ島は、ナポリの南約30kmに位置するイタリア南部のリゾート地。レモンが特産物で、別名《レモン島》とも言われる。面積は東京都の千代田区とほぼ同じ、外周は約17キロメートルで、最高峰はソラーロ山 (589m) である。

 カプリ島の船着き場の近くからケーブルカーで5分ほど登ると、島の中心部につながる広場に到着する。泊まったホテルはケーブルカーの駅からほど近いリゾートホテルの《ラ・パルマ》だった。
 ホテル《ラ・パルマ》の正面の外観は、当時の写真と現在ネットで紹介されている写真を比較してもほとんど同じに見える。ホテルの外壁も内壁も真っ白で、部屋の家具やベッドカバーの鮮やかなブルーやグリーンのカラーコーディネーションも実にきれいで、リゾートホテルとして面目躍如といったところだった。

 このホテルに2泊し、会議に参加した。私は、インテイジェントビル(主にオフィス)とトロン住宅(今日でいう、スマーハウス)のプレゼンテーションを行い、持参したVTRの上映も行った。また当時の記録によると、数種類の英語に翻訳した資料も持参し配布している。

 会議の始まる前に島を散策した。高台から見下ろすと別荘とおぼしき白い建物が点在しているのを見わたすことができる。カプリ島の周囲はかなりの部分が断崖絶壁で、波打ち際には半ば水中に埋もれている海蝕洞の観光名所《青の洞窟》がある。この洞窟には、洞窟のある入り江から手漕ぎの小船に乗って入って行く。

エピローグ
 夜の懇親会では、土地のアトラクションのグループが登場し、《カプリ島》を演奏し、歌や踊りを披露してくれた。最後には参加者全員が踊りだすというにぎやかなひとときとなった。

 ホテルの晩餐会でのワインはいつも白だった。波とヤシの木とホテルの名前がカットされているあまり大きくないワイングラスが気に入った。自力だったのか、通訳を介したのかは記憶にないが、レストランの人にお願いをして、2個のワイングラスをもらい、割ることを心配しながら持ち帰った。このグラスは今も我が家のリビングの棚に並んでいる。

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