2011年10月のふれあい充電講演会で《龍の謂れとかたち》と題して話をさせてもらった。話のメニューに《浅草寺の金龍の舞》も準備していたが、時間不足のために、写真はお見せしたが、十分に説明することができまかった。講演会の続きになるが、浅草寺と金龍の舞について紹介する。写真は、2007年、2008年、2011年に、いずれも秋に撮影したものである。 なお、2011年の《浅草寺示現会》の日(3月18日)の催しは、東関東大震災の影響で中止され、この秋に1年ぶりに開催され、多くの観客でにぎわった。
浅草の観音様を通常《浅草寺》と呼んでいるが、正式には《金龍山浅草寺》という。推古天皇36(628)年3月18日、隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成・竹成兄弟の網に一寸八分の黄金の仏像一体がかかり、それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めた。 この後に、天より長さ100尺ばかりの金鱗の龍が舞いおりて、観音様を御守りし、その地には、一夜にして、1,000本の松(現世利益ともなる五穀豊穣を暗示するもの)が生じた。仏法守護の龍神が、その金鱗の美しい輝きで人々の顔を照らし、しあわせに導いたことから、浅草寺の山号が《金龍山浅草寺》とされた。 平安期はじめ、慈覚大師の巡拝により伽藍の整備が行われ以来、慈覚大師を中興開山と呼んでいる。鎌倉期以降になると将軍自ら帰依、観音霊場として知られるようになった。 江戸時代、天海僧正の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ、以後の隆盛をみるようになった。 なお浅草寺は、寛永寺とともに江戸城の裏鬼門に位置しており、江戸城を守護する役割も担っている。 金龍の舞 浅草寺では、東京大空襲で二天門を除く伽藍が消失した。浅草寺本堂は昭和26年の起工より7年後の昭和33(1958)年に落慶し,その落慶を祝して金龍の舞は創始された。 金龍の舞については、久保田万太郎、吉川義雄両氏に指導を、作歌作曲を町田嘉章氏、作舞を藤間友章氏、鳴物指導を望月長一郎氏の支援を得て完成した。 舞は、3月18日の《浅草寺示現会》の日と、10月18日の《菊供養》の日と年2回の奉演、11月の《江戸時代まつり》でも金龍の姿を見ることが出来る。 金龍の舞は、観音様を象徴した蓮華珠を、金龍が守護する舞であり、宗教的には荘厳で幻想的、舞としては勇壮で華麗なもの(住職の挨拶)である。 2008年に本堂落慶50周年、金龍の舞も50周年を迎えた。これを機会に金龍は新調されて、この年に三代目金龍が四代目金龍に引き継がれた。金龍は、総重量88kg、全長18m、総金箔の鱗の数が8,888枚、現在の執行委員数は、85名(舞方約30名)であり、舞については日々の研鑽を怠らないという。 菊供養における勇壮で華麗な金龍の舞 私が見に行った2007年には正規の場所で、2008年の秋には浅草寺の境内が《浅草奥山風景》などでいつもの広場が占拠され五重塔の前の広場で舞が奉納された。2010年も五重塔の前の広場での開催だったらしいが、1011年秋には、本堂の修復工事も終えて正規の場所での開催となった。 金龍の舞の御一行のスタート地点は伝法院。金龍は伝法院の前庭で出発の時間を待つ。金龍に先立ち、浅草寺の貫首(かんす)達のあと、金龍の舞ののぼりに続いて松林に見立てた松児童(浅草幼稚園の園児)、蓮華珠と金龍とが仲見通りを練り歩いて宝蔵門に向かう。 金龍の舞のお囃子をするのは浅草芸者の浅草組合花組のお姐さん方。屋台に乗ってお囃子をしながら金龍に続く。 金龍は宝蔵門の真ん中をくぐる。宝蔵門には、いつもは小舟町寄進の大提燈が掲げられているが、半分ほどたたまれていて、その下を金龍が通り抜けて境内に入る。 金龍は本堂(観音堂)前で勇壮な舞を観音様に奉納する。このあと、本堂の南西側に移動し、埋め尽くした人垣を分けて広場に入る。 金龍は、広場の外周を回り、一巡したところで本堂に向かって中央の所定の場所に本堂に向かって整列する。ここで8人の舞手が交代する。 住職より浅草寺の縁起と金龍の舞の説明があり、そのあと、浅草芸者すず柳さんが唄を奉納する。ここでも浅草芸者の浅草組合花組のお姐さん方がバックを務める。 いよいよ、浅草組合花組のお囃子の中、観音様を象徴した蓮華珠の動きに呼応して、8人の舞手が操作する勇壮華麗な《金龍の舞》が繰り広げられる。 舞を終えて、本堂に向かって整列して挨拶をした後、金龍は帰途につく。金龍は本堂前で舞を披露した後休息をとる。舞を楽しんだ人々は龍の頭や体に触って縁起をもらうために金龍の周りに群がる。 この間、屋台で売られるお守りの入った記念の手拭を買う。この手拭は舞手が着ている半纏を縮小手拭折にしたもの。《南無観世音菩薩》と唱えればご利益があるという。 しばしの休息のあと、金龍は帰途につく。宝蔵門をくぐり、仲見世通りを練り歩く。金龍は空中を泳ぎながらお店の中に頭を突っ込んだり、沿道の観客に頭を触らせたりしながら、伝法院前に到着。そこで一回転し、伝法院の中に消えてゆく。 エピローグ 浅草には、龍を求めて何回となく足を運んでいる。その成果を、《龍の謂れとかたち》の中で《浅草まちあるき》として特集ページを組んでいる。 《金龍の舞》のほか、浅草寺では川端龍子の天井絵・3つの提灯の底の龍の彫刻・手水舎の龍など、《浅草神社》の飛龍と神輿、《伝法院》の鎮護堂の手水場、《べんがら》の龍図柄の暖簾、《とらんくすや》の龍図柄のトランクス、《富士屋》のガウン、《三美堂》の仏画色紙《東方神青龍》、《黒田屋》の干支和紙人形、《龍昇亭西むら》の龍最中について、それぞれの謂れと写真を紹介している。 金龍の舞の写真はこちらでご覧ください |