今年は辰年。前回は、《龍に見立てる》というテーマで、万里の長城、天橋立、井の頭池と神田川の3つの例を紹介した。今回は、井上員男氏が紙版画で描いた厳島神社の建物が龍に見えるというお話を紹介する。
NHK大河ドラマ『平 清盛』が佳境に入っているが、『平家物語』について、光が丘美術館での、井上員男氏の紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーションの会が開催された。その会に参加した体験についても記してみたい。
光が丘美術館(東京都練馬区)は、地下鉄光が丘駅の近くの静かな佇まいの一角に位置している。所蔵美術品は、日本画、陶芸、版画を軸とし、日本画壇に若き息吹を送り込む気鋭溢れる作家達による意欲作を特徴としている。 館長の鳥海源守氏の挨拶の中で、この美術館を紙版画『平家物語』の展示のために、作品のサイズに合わせて建物を設計した、と紹介があった。美術館の2階の壁面すべてを使って井上員男氏の紙版画『平家物語』が展示されている。作家独自の技法《紙版画》により800年前の源平合戦を描いた平家物語の幽玄の世界を堪能することができる。 紙版画『平家物語』 紙版画『平家物語』は、井上員男氏が構想12年をかけて完成した作品であり、全長76メートルにも及ぶ、屏風仕立ての壮大な絵物語。 その場面ごとの『平家物語』の原文を自書した詞書の六曲屏風と版画の六曲屏風が一双となる。最後の《六道》は詞書のみの一隻が加わり、六曲十二双一隻の作品構成となっている。 紙版画『平家物語』の題材としては、我身栄花・厳島御幸・富士川・平清盛公の薨去・倶利伽羅落とし・平家一門都落ち・坂落し・一の谷合戦・頸渡し・扇の的・壇ノ浦合戦・大原御幸の12のシーンに六道(詞書のみ)が加わる。 <紙版画とは> 版画の技法には、木版、鋼銅版、エッチング、石版などがある。紙版画『平家物語』に使われた手法は、《ペーパードライポイント》と呼ばれるもの。厚さ0.7mmの片面に樹脂加工した厚紙を紙版とし、カッターで線を刻んだり、はがしたりして、紙の地肌にインクを吸わせて刷る。井上氏は、細かい線描に加えて、掠れやぼかし、明暗表現を一版でおこなう手法を開拓した。 《ペーパードライポイント》の刷り部数は10~20枚程度とされており、平家物語六曲屏風については濃淡の関係で、12作すべてを刷ったものは10セットだそうである。 版画用紙には、越前産の純雁皮鳥の子紙が使われている。この紙は、滑らかな美観から最上品とされる。詞書用紙には、毛筆がなじむ三椏鳥の子紙が使われている。 平家物語の紙版画と琵琶演奏語りのコラボレーション 2008年4月24日に、IDNの講演会(第79回)の行事として、光が丘美術館を訪れた。美術館の2階の壁面すべてを使って展示されている井上員男氏の紙版画『平家物語』を見て、ご本人より作品に対する思いを聞き、作品の解説をしてもらった。 2010年6月と2012年6月に、大宅壮一マスコミ塾の例会で、2階の展示室の紙版画『平家物語』に囲まれた空間で、『平家物語』の琵琶演奏語りを聴く催しがあり、参加した。 2010年には、古澤史水さんの解説により琵琶の種類の説明と琵琶の違いを聴く実演もあった。琵琶の種類には、一番古い宗教音楽としての盲僧琵琶以外に、楽琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶などがあり、薩摩琵琶と筑前琵琶は弦が四弦と五弦があることを知った。 演奏は古澤錦城さんと古澤史水さんが中心に、若手の琵琶奏者の塩高和之さんが熱演、筑前琵琶と歌では、橘会の鶴山旭翔さん(女性)も登場した。 演目は、敦盛・経政・那須与一・知章の最期・壇ノ浦だった。 2012年にも2010年と同じ場所で同じ形式で演奏が行われた。古澤錦城さんと古澤史水さんに佐々木理加さんが加わり、敦盛・須与一・壇ノ浦の戦い・勧進帳が演奏された。 厳島御幸 治承4年(1180)2月21日、東宮言仁親王(安徳天皇)に譲位した高倉院(新院)が、3月19日に京都を出発し、陸路と海路とによって安芸国宮島の厳島神社に参詣、4月9日帰京する。 前年7月末平 重盛が没してのち、清盛と後白河法皇との関係は極度に悪化し、11月に清盛は福原から軍兵を率いて上京し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。そして年改まると、高倉天皇を退位させ、外孫に当たる3歳の言仁親王(後の安徳天皇)の践祚を強行した。 このような清盛の独裁的な姿勢に比叡山延暦寺(北嶺)の僧兵などが反発し、不穏な動向を見せるさなかに、高倉院の厳島御幸は行われた。 高倉院には清盛の信仰篤い厳島社に参詣することによって、清盛の心を和らげ、父法皇を苦境から救いたいという心願が籠められていた。 厳島の建物が龍に見える 厳島神社は、古くは《伊都岐島神社》と称し、祭神は市杵嶋(イチキシマ)姫命、田心姫命(タゴリヒメ)、湍津姫(タギリヒメ)命の三女神で海上交通の守護神として信仰されていた。 社殿は推古元年(593)に土地の有力豪族であった佐伯鞍職(くらもと)が創建した。安芸守任官によって深いつながりができていた平 清盛が、1168年に私財をつぎこみ現在の社殿を造営、平家一門の隆盛とともに盛えた。 井上員男氏は『製作物語』の《厳島御幸》のところに書いている。現地の写生をもとに下絵を書き進め、海を暗く塗っていて気がついた。建物が龍に見える。手前が頭。拝殿や祓殿(清盛たちがいる)が腹、上部の回廊が尾である。 高倉院と清盛の一行は3月25日に厳島へ着き、26日は古式に従って儀式を執り行う。27日は夜通しこの世のものとは思われない華麗さで種々の舞踏が繰り広げられた。夜明けに鳥が鳴き、潮が満ちてからそれぞれの宿所に入った。《厳島御幸》の龍の腹の部分は、この夜の宴の様子が描かれている。 エピローグ 『厳島御幸』の絵の右下には、一行が乗ってきた宋船が眠っている。この船は清盛が宋から買った商船か、あるいは安芸の国の造船所で清盛が創らせたか、豪華なものである。このように栄華を極る威勢にあった平氏の衰亡はすぐそこに迫っていた。 高倉天皇の御幸は、治承4年 (1180) 3月から4月にかけて行われたものである。この年の10月には頼朝が鎌倉で挙兵、翌年の1月に高倉上皇が崩御、2月には、清盛が熱病で急逝。5年後に、壇ノ浦で滅亡を迎えるのである。 紙版画と琵琶演奏のコラボレーションについては、最初は井上員男氏の説明による紙版画の平家物語を鑑賞、2回目と3回目は紙版画の空間で琵琶演奏語りを聴いた。 紙版画の平家物語、琵琶演奏の平家物語のそれぞれについても興味は尽きないが、両者のコラボレーションの空間に身を置くことに望外の喜びを感じた。さらに、厳島神社が龍に見えるという井上員男氏は私の興味を掻き立てることになった。 編集後記集 |