東京駅のドームの十二支のレリーフ

【メルマガIDN編集後記 第253号 121101】

 今年は辰年。今回は旬の話題として、東京駅のドームの十二支のレリーフを取り上げる。1914年(大正3年)に完成した東京駅丸の内駅舎は戦争による爆撃で被災し、2階建てに変更する形で復旧されて今日まで親しまれてきた。2007年の修復復原工事着工から5年余の期間を経て、創建当時の姿を取り戻し、2012年10月1日にグランドオープンした。北と南にあるドームの十二支のレリーフも創建当時の姿に復元されたと知り見に行った。


復元された東京駅 全長約335m   2012年10月に撮影
【写真を合成して作成したので実際の見え方と若干違っています】


東京駅のドーム(北)の天井部


南のドームの辰と巳(南東面)を見上げる


南のドームの辰と巳(南東面)
黒い部位は空襲で破壊された当時の部材がはめ込まれている


八本の柱と十二支のレリーフの配置  子・卯・午・酉がない


辰のレリーフ(南東面)  網がかぶっている

東京駅の誕生
 江戸から引き継いだ都市インフラが限界に達した明治10年代、近代国家の首都にふさわしい都市へと東京を改造する気運が高まり始めた。
 鉄道計画はそのメインテーマと位置づけられた。新橋~横浜間は官設鉄道として1883年に開通し、上野~熊谷間は私設鉄道の日本鉄道の路線として1885年にすでに開通していた。東京のターミナルとして開業していた新橋駅と上野駅とを結ぶ市街線の建設、及び、その両駅に代わる中央停車場の設置が計画された。

 その目的は、それまで各方面ごとに独自に敷設されていた官設鉄道と私設鉄道を結んでネットワークを形作ることによって、都市内交通を活性化し、同時に日本列島を縦貫する国土交通の大動脈を創出することにあった。とりわけ、その中核に位置する中央停車場には、全国に拡がる鉄道網の収束点としての役割が期待された。

 1903年(明治36)に前東京帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)学長で、当時の日本建築界の第一人者、辰野金吾に設計を依頼。当初は小規模な計画だったが初代鉄道院総裁後藤新平の意向で設計変更を重ね、予算も当初の7倍にも膨れ上がった。

 1908年(明治41)駅舎基礎工事がスタート、基礎工事には松丸太8,000本を打ち込み、鉄骨組み立てには3,157tの鉄が使用され、6年半後の1914年(大正3)12月14日、総坪数3,184坪(内駅舎2,341坪)、正面長334.5m、左右に巨大なドームをもつ駅舎が完成した。

 正面に皇室専用の玄関を設け、右(南)側のドームが乗車口、左(北)側のドームが降車口とされた。乗降口の分離は、1948年(昭和23)まで続けられた。駅前には広大な広場が設けられた。

駅の名称
 東京駅は、建設工事の段階では中央停車場とよばれていた。その改称にあたっては、日本の中心東京に完成したことで東京駅と命名し、地方の人にもわかりやすくすべきと考える派と、東京には、上野、新宿をはじめたくさんの東京の駅があり、中央停車場だけに東京駅の名を冠するのはおかしい、外国の例にならい、首都を代表する駅には中央駅の名を冠するべきとする派とに分かれ、議論が紛糾、開業2週間前にやっと東京駅の名称が決定した。

戦禍で被害を受ける
 東京駅駅舎は、第二次世界大戦の戦禍で屋根や3階部分などが大きな被害を受けた。1947年(昭和22)に、2階建てに変更する形で復旧され、創建当時から数えて100年近い歴史を刻んできた。

東京駅の復元
 東京駅丸の内駅舎の保存復元計画において、下記の基本方針が定められた。

未来へ継承すべき貴重な歴史的建築物として、残存している建物を可能な限り保存するとともに、創建時の姿へ復元します。
【保存】
・1階と2階の既存レンガ躯体と鉄骨広場側の1・2階の既存外壁を保存します
【復元】
・広場側、線路側の3階外壁は新躯体を設置の上、化粧レンガ、花崗岩、長石で復元します
・屋根は天然スレート、銅板で創建時の姿に復元します
・ドーム3・4階の内部見上げを創建時の姿に復元します

 東京駅の保存復原にあたり最も留意されたのが、重要文化財に指定されている旧来の部分はそのままの姿で「保存」しながら、創建当時の姿へと戻すための「復原」部分が保存部分と区別できること、そしてかつ、全体として違和感のない景観に仕上げることだった。

構造計画
 丸の内駅舎を駅・ホテル・ギャラリー等として恒久的に活用するために必要かつ十分な安全性・耐震性を確保し、免震工法を採用。重要文化財建物を永続的に保存するため、免震工法にするほか、レンガ壁や床組鉄骨などの既存架構を極力活用し、新たな補強を軽減した。

 創建当時に建物を支えるために埋め込まれた松の木の杭を撤去、駅舎全体をいったん仮り受け杭で支え、新たな構造杭で支えている。
 地震への対策として、約350個の巨大な免震ゴムが1階と地下施設の間に置かれている。

ドームの十二支のレリーフ
 駅舎全体の重厚な雰囲気を醸し出す八角形のドームが創建時の姿に復元された。
 八角形の壁面内部は、たまごの黄身の色と白と茶色で構成されているが、このドーム内部の復原で最も苦労したのは色の再現だったという。当時の竣工図や写真はすべて白黒であり、色を表現した資料を探し、他の建築からも類推し、色の復元が図られている。

 ドームには、アーチ、柱、せり出したギャラリー、ドーム中心の動輪型の装飾、花飾りのレリーフ、鷲型の彫刻(全幅長2.1m)、アーチ上部の装飾には兜型(秀吉の兜)のキーストン、刀剣のレリーフ、鳳凰型のレリーフなど、盛りだくさんの装飾が施されている。

 八角形のドームを支える八本の柱の上部に配されている十二支の動物たちは、この空間の豊かさを演出している大きな要素である。
 八本の柱に対して十二支というのは数が合わないのであるが、十二支が方角を示すルールにのっとり配置されている。

 飾られている干支は、ドームの向きに合わせて、丑・寅(北東)、辰・巳(南東)、未・申(南西)、戌・亥(北西)であり、正中線に位置する、子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)が省かれている。

 現地で見ているときには気が付かなかったが、南のドームのアーチの一部には、黒い部位が嵌め込まれている(写真参照)。空襲で破壊された当時の部材が保管されており、今回復原されるときに創建時にあった場所に戻されたという。

エピローグ
 《辰巳芸者》という言葉を聞いたことがおありだと思う。辰巳芸者は、江戸を舞台にした作品にしばしば登場する。江戸の深川(後の東京都江東区)で活躍した芸者のことをいう。《辰巳芸者》は、深川が江戸の辰巳(南東)の方角にあったことから呼ばれた。羽織姿が特徴的なことから《羽織芸者》とも呼ばれ、意気と張りを看板にし、江戸の《粋》の象徴とされた。

 なお、今回の東京駅の説明には、工事中の仮囲いに掲示してあった説明パネルの内容を主な参考資料とさせてもらった。
【生部圭助】

東京駅が竣工したした1914年(大正3)当時の写真、復元された十二支の写真などをHP 龍の謂れとかたちで紹介しています

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