神社仏閣の天井に描かれた龍の絵

【メルマガIDN編集後記 第254号 121115】

 今年は辰年。龍との出会いの中で、神社仏閣に描かれている龍の天井絵も見どころのひとつである。龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれている。また、龍は《水の神》ともいわれ、修行僧に仏法の教えの雨を降らせると考えられている。
 天井絵については、見に行く機会があっても、見せて(拝観させて)もらえない、見せてもらえても写真の撮影を許可されないことが多い。龍の天井絵を極めたとは言えないが、今回は、自分で写真を撮ったものを紹介したい。ここに紹介するものの詳細については、ホームページ《龍の謂れとかたち》をご覧いただきたい。


建仁寺の法堂の天井画《双龍図》 (小泉淳作 筆)


浅草寺の手水舎の天井絵
浅草寺本殿外陣天井の《龍之図》(川端龍子 筆)


上野不忍池弁天堂の天井絵《金竜の図》(児玉希望 筆)


龍口寺仁王門の天井絵(2種のうちのひとつ)


下谷神社横山大観の天井絵(横山大観 筆)


真高寺山門の天井絵(2種のうちのひとつ)


妙心寺法堂の雲龍図(狩野探幽 筆) 直径12m 
【JRの2007年夏のキャンペーンポスターより部分】

建仁寺の法堂の天井画 双龍図 (小泉淳作 筆)
 建仁寺は鎌倉時代の建仁2年(1202)に創建された臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山と称す。建仁寺の法堂は、仏殿を兼用し《拈華堂(ねんげどう)》という。
 この法堂の天井に、小泉淳作の《双龍図》が描かれている。《双龍図》は2002年に建仁寺開創800年を記念して、日本画家小泉淳作画伯により描かれた。
 製作は帯広市の近く、中礼内村の小学校の体育館でおこなわれた。建仁寺創建以来、素木(しらき)のままだった法堂の天井に、構想から一年十ヶ月の歳月をかけて完成した。
 絵の大きさは、縦14.4m、横15.7mで、畳108枚分と大きい。麻紙とよばれる丈夫な和紙に、最上の墨房といわれる《程君房(ていくんぼう)》の墨を使用して描かれた。

 通常の雲龍図は、宇宙を表す円相の中に仏法の神格である龍が一匹だけ描かれる(例:同画伯筆の建長寺の法堂天井の《雲龍図》)。建仁寺の双龍図は、二匹の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が始めて採用された。二匹の龍が争うのではなく、共に協力して法を守る姿が描かれている。

浅草寺の本殿外陣天井の《龍之図》と手水舎の天井絵
 推古天皇36年(628)、隅田川に投網漁をしていた漁師の兄弟の網に一体の仏像がかかり、それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めた。これが金龍山浅草寺のはじまりとされている。
 浅草寺本殿外陣の天井には、川端龍子の筆による《龍之図》がある。昭和31年(1956年)に描かれたこの絵は有名である。

 8体の龍が配されている手水舎の天井にも立派な龍の絵が描かれている。この龍の絵は誰の筆によるか解明できていない。

上野不忍池弁天堂の天井絵《金竜の図》(児玉希望 筆)
 寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで常陸下館城主の水谷勝隆が池中に中之島(弁天堂)を築いた。弁天堂は、昭和20年の空襲で焼失し、昭和33年9月に再建された。

 本堂天井には《金龍の図》が画かれている。これは昭和41年に児玉 希望画伯により描かれたもの。
 児玉 希望(1898~1971)は、本名を省三といい、広島県高田郡(現安芸高田市)出身の水墨に生きた日本画家。小さい頃から絵に親しみ13歳にして院体画に習った細密な武者絵を描いている。川合玉堂の門に入り、1918年帝展審査員、1959年日本芸術院会員、1970年勲三等旭日中綬章受章。画塾の門下には佐藤太清、奥田元宋、船水徳雄らが在籍した。

龍口寺仁王門の天井絵
 龍口寺(神奈川県藤沢市)は、日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ事件に縁のある寺。日蓮聖人滅後の延元2年(建武4年(1337)に、日蓮の弟子、日法がこの地を《龍ノ口法難霊蹟》として敷皮堂という堂を建立。自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まり。
 本堂と県内唯一の本式木造の五重塔は神奈川建築物百選に選定されている。仁王門は昭和48年(1974)築で、鉄筋コンクリート造り瓦葺。

 仁王門には、よく似ているが、異なった2種の天井絵がある。天井絵には目地が入って区分されている。

下谷神社横山大観の天井絵(横山大観 筆)
 下谷神社(東京都台東区)の祭神は大年神(おおとしのかみ)。五穀を主宰し厚く産業を守護し、ひろく《お稲荷様》として祭られている。寛政10年(1978)に江戸で初めて寄席が行われた寄席発祥の地としてもしられる。昔から《正一位下谷稲荷社》と称し、この町を稲荷町と呼ぶようになった。

 龍の天井絵は、神社の改築に際して、日本近代画の巨匠、横山大観の筆により昭和9年に完成した。縦174cm、横296cmの龍の天井画は、湧き立つ雲の中に突如として現れる龍を描いた水墨画で、迫力あふれる作品。鉦鼓洞主(しょうこどうしゅ)という印章があり、画面左下に墨で《昭和甲戌(昭和9年)之春 大観》と記されている。
 制作に当たっては、下絵を作製し、それを天井に貼りながら、全体の調子を整えたといわれており、意欲的に描かれたことが知られている。

真高寺山門の天井絵
 最勝山真高寺(千葉県市原市)は、室町時代の1453年に真里谷城主武田三河守信保が開基。真高寺の本堂の欄間に初代武士伊八郎信由(別名 波の伊八)の手になる龍の透かし彫りがあるといわれている。訪れて、住職に見せてほしいとお願いしたが、「《伊八》と特定出来ていないから」といって見せてもらえなかった。

 山門は寛政5年(1794)に三間一戸二階二重門で入母屋造として上棟された。昭和60年に市原市の有形文化財に指定されている。2階の蛙股には、《伊八》の手になる彫刻がある。
 1階中央間の鏡天井には龍、2階には飛天が描かれている。1階中央間の鏡天井に描かれた2つの龍の天井絵には、狩野景川画との銘がある。

妙心寺法堂の雲龍図(狩野探幽 筆)
 妙心寺法堂は関山慧玄国師の300年忌を記念し建造された。JRは2007年夏のキャンペーンに妙心寺を選び、法堂天井に描かれた狩野探幽の雲龍図を、幅が約2.7Mもある大型のポスターにした。

 狩野探幽(1602~1674)は狩野永徳の孫で、二条城、江戸城、名古屋城などの幕府や、大徳寺、妙心寺などに作品を残し江戸狩野派のもとを築いた。

 法堂天井にある《雲龍図》(重要文化財)は、狩野探幽が55歳のとき、8年の歳月を要して描きあげた直径12mの天井絵で、通称《八方にらみの龍》という。
 龍の目は円相の中心に描かれており、立つ位置、見る角度によって、龍の表情や動きが変化するように見える。東からは龍が昇っていくように、西からは龍が降りてくるように見える。
 絵具の原料に貝殻・炭・草木のしぼり汁など自然のものが使われているので変色が少なく、約350年の間、一度も修復されず今に至っている。

エピローグ:鶴谷八幡宮《百態の龍》
 今回紹介した以外の龍をモチーフにした天井絵についてはホームページ《龍の謂れとかたち》をご覧いただきたい。

 これは天井絵ではないが、鶴谷八幡宮(千葉県館山市)の拝殿の向拝の格子天井にはめこまれた彫刻《百態の龍》を紹介する。中央の鏡天井の龍の周囲に54態の様々な龍の姿が組み込まれている。幕末から明治にかけての安房を代表する木彫師・後藤利兵衛義光の作品。これは一見の価値がある。

編集後記集