映画 東ベルリンから来た女
【メルマガIDN編集後記 第260号 130215】

 2013年2月25日のふれあい充電講演会で、『ドイツ映画の世界』という題で、講師に吉川美奈子氏をお迎えする。氏はドイツ語の映画の字幕翻訳に携わっておられ、その中に最近日本でも封切られた映画《東ベルリンから来た女》も手がけられた。講演を聞く前に見ておこうと、久々に映画館に足を運んだ。
 この映画を理解して感じるためには、《ベルリン》に対する知識が必要だと思い、歴史の復習をし、以下のようなことを一応頭に入れてから映画を見に行った。


壁の位置が車道に道標として表示されている


壁の博物館のリーフレット


壁の断面モニュメント(第4世代)


イーストサイドギャラリー


映画《東ベルリンから来た女》のプログラム

  <作品データ>
 原題:Barbara
 監督・脚本:クリスティアン・ペッツォルト
 音楽 シュテファン・ビル
 キャスト:ニーナ・ホス、ロナルト・ツェアフェルト、
      ライナー・ボック、ほか 
 2012年/ドイツ/105分/ドイツ語
 配給:アルバトロス・フィルム
 字幕翻訳:吉川美奈子

東西に分断されたベルリン
 ベルリンは、ドイツの北東部に位置する都市であり、ドイツ連邦共和国の首都である。歴史をさかのぼると、ウィーンがドイツの中心と見なされていた時期があったが、1868年に新統一ドイツの首都がベルリンに確定した。
 ベルリンは、1871年のドイツ帝国成立から1945年の第二次世界大戦の終結まで、ドイツ国の首都だった。

 第2次世界大戦後、ベルリンは米英仏露の分割統治下におかれた。敗戦国のドイツは資本主義体制の西ドイツと共産主義体制の東ドイツに分断された。東ドイツと東ベルリンでは、ソ連式の社会主義の施行が始まった。企業は国有化され、商売の自由は縮小、政権を批判するものは逮捕され、言論の自由が失われてゆく。嫌気がさした東ドイツ国民や東ベルリン市民は西ベルリン側へ逃げ込む。

 こうした亡命者を防ぐため1961年8月にソ連統治下の東ドイツはベルリンの境界線を封鎖した。壁はすべて東ドイツ領内に建設され、その後、強固なものになり、東西が遮断された。
 東ドイツ領内作られた壁は4つの世代に分類され、順に強固なものになり、壁の長さは全長155kmに達した。
 西ベルリンは周囲を東ドイツに囲まれ、《赤い海に浮かぶ自由の島》となった。
 壁を乗り越えることを試みた人たちはその場で射殺、壁が存在している間に計239人が射殺されたという。

 東西冷戦のシンボルの《壁》が崩壊したのはハンガリーの民主化がきっかけ。東ドイツ国民はハンガリーを経由して亡命を始めたため、壁の意味がなくなった。
 記念すべきライプツィヒにおける1989年10月9日の《月曜デモ》には7万人が参加し、当局は手をこまねいてなすすべもなく、流血のないデモとなった。月曜デモの成功から9日後の10月18日に、ホーネッカーが18年間座り続けた最高権力者の座を追われた。

 東ドイツ政府は、1989年11月9日に東ドイツ市民に対して旅行の自由化(旅行許可書発行)を発表した。このことによって、ベルリンの壁は実質的に意味を持たなくなり、その翌日の11月10日未明になると、ハンマーや建設機械により、壁の破壊作業をはじめられ、ベルリンの壁は崩壊した。
 そして、東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。さらに、1990年10月3日に東西ドイツは正式に統一された。

映画《東ベルリンから来た女》
 原題《ペペルモコ》の邦題が《望郷》、《東ベルリンから来た女》の原題は《バルバラ》、映画の日本題名は、映画への興味を膨らませてくれる。
 最初、この映画は《東》から《西》へ来た女の話かと思った。原作は、地下活動をする共産主義者の女性医師の話だそうで、この映画の監督であり脚本を書いたクリスティアン・ペッツォルトは、「移住申請をした男の医師は軍医にされ、女は医師不足の地方病院で働かされた」と聞き、原作の時代や舞台設定を大きく変えて脚本を書いた、とのこと。

 《東》の年金生活者は、国の負担を減らすために《西》移住する道があったが、国のために役に立つ医師は、そうはさせてもらえなかった。主人公の女は、《東》の中心であるベルリンの大病院から、バルト海に近い片田舎の病院に追いやられて赴任してくる。そして、シュタージ(秘密警察)の監視下に置かれている。
 ここでストーリーを書くつもりはないが、以上のことは知ったうえで映画を見ると、理解が深まると思う。

 監督は、旧東独は《暗い灰色の社会》と類型的に示されることが多いのが気になっており、映画では、1980年頃の東ドイツの田舎町と人々の日常生活を緊迫感をもってリアルに丁寧に描いた。
 映画のなかでは、虐げられた《東》での生活の実態がいくつかのエピソードとして挿入されているが、監督の意図は「当時の東独は現代のドイツや日本と違う社会。でもこの映画で描かれる不信や不安といった感情、《義務と自由》といったテーマはどこででも理解してもらえると思う」と言っている。
 監督のクリスティアン・ペッツォルトの考えについては、監督にインタビューしたベルリンの松井健記者のコラム(朝日新聞)を参考にさせてもらった。

 この映画で「孤立させてもらうわ」と宣言したバルバラは寡黙で硬い表情で終始するが、彼女の2回の笑顔に対する演出が印象に残った。1回目は、破顔ともいえるうれしそうな笑い顔、もう一つは静かで優しい笑顔。どちらも男に対してのものであるが、バルバラの気持ちの変化を象徴的に表現していると思う。

 この映画は、2012年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞した。また、2013年アカデミー外国映画賞ドイツ代表にも選出されている。

エピローグ
 ベルリンへ行ったのは、06年、08年、10年の3回。いずれもコンサートのために行った。昼間は暇なので美術館めぐりに費やすことが多かったが、《壁》に関わるところを訪れる機会もあった。

 単独で行った最初の時は、現地の案内の方から、地下鉄やバスの乗り方等を教わった時に、まち歩きの注意事項として博物館島より東には行かない方がいいと言われた。

 2回目の時には、壁の一部を記念として保存し、壁の歴史などがパネル展示されているところに案内してもらった。ここにでは、壁の実物を見ることが出来、テレビでよく見る厚い壁ではないものもあることを知った。

 3回目の時には、東西分断時代に外国人のみが通行を許可された国境《チェックポイント・チャーリー(レプリカ)》、《ベルリンの壁博物館(壁の歴史を写真や現物で展示してあり、死を覚悟で西側へ脱出を試みた人達の記録が生々しい)》、《ベルリンの壁 イーストサイドギャラリー》なども見た。また、かつて東で最高級と言われたホテルにも泊まった。

 ベルリンの街を歩くと、壁が存在していたところに道標として表示してあり、壁のラインをたどることができる。今はきれいに整備されているが、実際に現地に足を踏み入れてみるとかつての名残もたくさんあり、実感がわいてくる。
 旅行者だから見るものは多くはないが、このような経験は、映画《東ベルリンから来た女》をより身近に感じるのに役立ったのではないかと思う。
 ふれあい充電講演会では、この映画についてのお話はもちろん、映画についての諸々のお話を伺うことが出来るのを楽しみにしている。

ベルリンの松井健記者のコラム(朝日新聞)
編集後記集