七支刀
【メルマガIDN編集後記 第267号 130601】

 七支刀
 国宝である《七支刀(しちしとう)》は、《ななつさやのたち》ともよばれ、昭和28年に国宝に指定されている鉄製の特異な形をした剣。七支刀は、石上(いそのかみ)神宮に所蔵されており、見る機会の少ない逸品である。この七支刀が2013年に東京国立博物館で開催された『大神社展』で、4月9日から5月12日までの期間限定で、《伝世の名品》のひとつとして展示された。


東京国立博物館で開催された『大神社展』のチラシ

 
左:象嵌されている金色の文字を見る【絵葉書より】
右:写真より七支刀の寸法を割りだした


中山真知子著『立花と七支刀 いけばなの起源』
『謎の七支刀』の著者宮崎市定氏が解読した銘文が紹介されている


カテドラルのパテオとコリドー
いけばな体験工房にたくさんの子供たちが参加した


カテドラルのコリドーに《七支刀》を活けた
手前は、パテオにある井戸へのインスタレーション


作品:七支刀
七支刀の全長は74.8cm

石上神宮
 石上神宮は奈良県天理市にある日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきた。
 総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留の高庭に祀られた。
 平安時代後期、白河天皇が当神宮を殊に崇敬し、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿を寄進したものと伝えられている。

七支刀の謂れ

 七支刀は、鉄製の刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ている七本の刃を持つ特異な形をした剣であり、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。全長74.8センチで、下から約3分の1のところで折損している。明治時代に錆びついた文字が解読されるまでは、《六叉鉾》、《六叉刀》と呼ばれていた。

 この刀身の表裏両面に金象嵌された(彫った文字の上に金がのせられている)61文字(表に34文字、裏に27文字)の銘文がある。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、判読が困難な部分が多い。

(銘文:表)泰和四年□月十六日丙午正陽造百錬鋼七支刀出辟百兵宜供供侯王□□□□作

(銘文:裏)先世以来未有此刀百済王世□奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

 銘文の大意はおよそ次のように判読されている。
(訳:表)泰和四年十一月十六日丙午正陽、百錬の鋳の七支刀を造る。出すすみては百兵を辟さけ、供供たる倭王に宜し、□□□□作なり。

(訳:裏)先世以来、未だ此の刀有らず。百済王の世子、奇しくも聖音に生く。故に倭王の為に旨造し、後世に伝示す。

日本書紀の記述
 『日本書紀』によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったとの記述がある。

 七支刀と日本書紀の七枝刀が同じものであるとすれば、七支刀の銘文の判読と解釈により、この頃の《時》の特定に有力な資料となる。諸説があるが、西暦369年に百済王の太子が製作させた七支刀が3年後に百済使節によって我が国にもたらされたというのが有力な説となっているようだ。

七支刀と立花~七枝にかける願い~
 私がこの七支刀について知ったのは、中山真知子著 『立花と七支刀 いけばなの起源(2002年1月 人文書院発行)』である。著者は、「七」と「北」という視点を通して、石上神宮の宝刀である《七支刀》と伝統いけばな《七枝の型》が酷似していることから、それを検証することにより、いけばなの起源を論証した、と記している。

 本書では、この七支刀の型から発しているのが《立花》であことを論じており、図《仏神の花 華厳秘伝之大事》では、7つの《支・枝》にこめる思いを以下のように説明している。

<一枝:主人賞翫枝・主人敬愛>、<二枝:富貴自在・客人賞翫>、<三枝:主君・親子枝・安全>、<四枝:寿命長遠・命枝・水持>、<五枝:師枝・諸仏列座>、<六枝:諸神・影向か・神枝>、<七枝:天長地久>。

フェスタ・マジョール 2007での花展
 2007年に、ソルソーナ市(スペインのバロセロナの北西約125kmのところに位置する、人口1万人ほどのまち)の秋の大祭《FESTA MAJOR de SOLSONA 2007》に日本から参加し、《花展》を行った。当地の大聖堂(カテドラル)のパテオとコリドーに花を活け、日本の《KADO》を体験してもらうことにより、 日本文化を伝道し、ソルソーナ市民との交流を意図した。

 私は、西洋の精神が凝縮されたカテドラルの空間に、日本の伝統文化である《いけばな》の起源といわれている《七支刀》持ち込んだ。
 『立花と七支刀 いけばなの起源』に示されている七支刀の形と、全長が74.8cmであるとの情報をもとに、原寸大の七支刀をダンボールで作り、原寸大では旅行カバンに収まらないので2分割して現地に運んだ。
 活けこみの日に一体化して表面にアルミホイールをかぶせて光り輝く七支刀に仕上げて、中心に立て、現地で調達した枝物と花を加えて作品に仕上げた。

 『立花と七支刀 いけばなの起源』を書いた中山真知子氏の考えは、《七支刀》が《七枝》の起源であり、七つの枝で作品を構成し、それぞれの枝に思いを込める、というのが正しい解釈であろう。作品の中にズバリ七支刀を立てる(活け込む)ことは論外であるかもしれない。
 しかし、スペインの田舎の立派なカテドラルのコリドーに《七支刀》を立てたお花を活けることにより、日本のお花の原点を伝えることが出来るのではないかと考えて、あえて試みた。

 活け込を終え、フェスタ・マジョールの開会式の直前に、市長がお花を展示してある場所に来てくれた。市長は、会長の作品から巡回し、それぞれの制作者は自分の作品の題名と作品の意図を説明した。
 私のところでは、七支刀を紹介し、一番上の《支》ではソルソーナ市の発展を、2番目の《支》では市長の健康と活躍を祈念していることを告げ、順に私たちの花道会の発展と今回の花展の成功を願っていることなどを説明した。2番目の《支》の説明で市長の表情が和んだ。

エピローグ
 こんなこともあって、この機会を逃すと永久に七支刀を見ることが出来ないと思い、東博へ足を運んだ。会場では七支刀の両面を見ることが出来るように展示してあった。七支刀は赤茶けた錆びた刀だったが、角度を斜めにしてみると、茶色い刀身に象嵌されている金色の文字が光って見え、とてもきれいだった。

<銘文について>
 七支刀に象嵌されている銘文について、『立花と七支刀 いけばなの起源』では、『謎の七支刀』の著者であり、初めて61文字を解読したといわれる宮崎市定の説を採用してあった。
 東博の展示でも銘文の紹介があったが、記録するのを忘れた。ネットでいくつかの判読されているものを見たが、どの説が正しいか私には判断が出来ない。今回紹介したのは、2012年に天理市文化センターで開催されたシンポジウム『国宝「七支刀」の謎』の記録より一部を使わせてもらった。

 文字の判読と解釈、七支刀が作られ贈られたた年代、鍛造か鋳造か、七支刀は百済王から倭王に献上されたものなのか、下賜されたものか、これらについて諸説あるようだ。いくつかの説を読んでみると、当時の大和朝廷と百済の関わりまで視野が広がり興味を注がれるが、奥が深そうである。

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