上野東照宮は、龍楽者を自称するものにとっては興味ある対象である。ここには、唐門(向唐門)に左甚五郎の昇り龍と降り龍の彫刻がある。また、唐門の前の両側には国宝に指定されている6基の燈籠がある。燈籠の中台には龍のレリーフが施されている。唐門と銅燈籠については、私のホームページ《龍の謂れとかたち》で紹介している。
唐門の左甚五郎の龍の彫刻も以前の金箔を除去して彩色され、以前とは異なった趣の龍として甦っている。《龍の謂れとかたち》に、昇り龍と降り龍の2007年に撮影した写真と今回撮影した写真を並べて紹介している。 上野東照宮 東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社。日光東照宮、久能山東照宮が有名だが、全国各地に数多く存在する。 そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれているが、正式名称は東照宮。 御祭神は、徳川家康公、徳川吉宗公、徳川慶喜公。 1616年2月4日、お見舞いのために駿府城に赴いた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしい、という遺言を受けた。 藤堂高虎は幕府の許可を得て忍ヶ丘(現・上野の山)の屋敷内に家康を祭神とする宮祠を元和9年(1623)に造った。これが上野東照宮の始まりとされる。(、上野の地名は藤堂高虎の領地である伊賀上野にその地形がよく似ているということで付けられたという) その後、藤堂高虎は二代将軍秀忠に江戸に家康をお祀りする寺の造営を進言し、当時、高虎の下屋敷と弘前藩、越後村上藩の三屋敷があった忍ヶ丘に、天海を開祖とした《東叡山寛永寺》を寛永2年(1625)に開山した。この寛永寺境内に東照宮(当時は《東照社》とよばれた)が寛永4年(1627)に建立された。 宮号 正保3年(1646)、朝廷は家康に《東照宮》の宮号を贈り、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。 家光公が大規模に造営替え 三代将軍家光は高虎が建てた社殿が気に入らず、慶安4年(1651)に全面作り替えを命じた。その年の4月に完成したのが上野東照宮の現存する社殿。 当時は東叡山寛永寺の一部だったが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立。 その後、戌辰戦争でも焼失せず、関東大震災でも倒れることなく、先の大戦でも不発弾を被っただけで社殿の崩壊を免れた。 上野東照宮は、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物である。 東照宮の造り 前方の拝殿と後方の本殿を幣殿(石の間)でつなぐ《権現造り》という構造で、中尊寺金堂を真似たような総金箔の建物だった。そのため、この社殿は金色殿と呼ばれている。 現在、金色殿をはじめ、唐門(からもん)・透塀(すきべい)・灯籠(とうろう)などが国の重要文化財に指定されている。本格的な江戸建築を間近で見ることのできる神社である。 唐門 唐門は慶安4年(1651)に建築された。前後が唐破風、左右の本柱(円柱)2本と控柱(方柱)2本で上部組物を受けた向(むこう)唐門であり、正式名称は、唐破風造り四脚門。 門の内側の両側上部にある松竹梅と金鶏鳥の彫り物は室町・桃山の技術を集大成した傑作である。 左甚五郎作と伝えられる昇り龍・降り龍 社殿を囲う透塀との間にある柱の内外4額面には左甚五郎の作と伝えられる昇り龍と降り龍が嵌め込まれている。 外側から見ても、内側から見ても、右の龍の頭が下を向き、左の龍の頭が上を向いている。上を向いているのが昇り龍かと思うが、そうではない。偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれている。 講談『名工甚五郎の水呑みの竜』 三代将軍家光が上野寛永寺の鐘楼建立にあたり、四隅の柱に甚五郎をはじめ木彫の名人4人を選んでそれぞれ1匹ずつの龍を彫らせた。甚五郎の彫った龍だけがなぜか夜な夜な柱から抜け出して不忍池に水を飲みに降りるようになり大騒動となる。 そこで甚五郎が「可愛そうだが足止めをする」と言って金槌で龍の頭へくさびを打ち込むと、その夜から龍は水を飲みに降りなくなった、という話。 寛永寺の跡地に昔の鐘楼と鐘は残っているが、鐘楼の四本柱に龍の木彫はない。すぐ傍の上野東照宮の唐門の本柱の額面に昇り龍と下り龍の高彫りがあって、東照宮ではこれが甚五郎作の《水呑み龍》だと伝えている。 子規の句 上野東照宮には、明治26年に詠まれた正岡子規の句がある。 秋淋し毛虫はひ行く石畳 上野東照宮のアプローチは、大石鳥居と水舎門をくぐって、表参道を進んで唐門に至る。子規の句がどの場所で詠まれたかはわからない。 エピローグ:国宝の燈籠 上野東照宮には、諸国の大名が寛永・慶安年間に、東照大権現霊前に奉納した奉納した多数の燈籠が表参道脇に置かれている。石燈籠は200基以上、48基(50体とも言われる)の銅燈籠が唐門の近くに置かれている。 社殿に向かって左側手前の1基は寛永4年の銘があり、藤堂高虎が家康公十三回忌に寄進したもの。この燈籠が最も古く、形も南円堂形と特徴がある。 燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもので照明用具ではない。浄火とは神事・仏事に使う清めた火のことである。 唐門の前の両側にも国宝(昭和17年に国宝指定)に指定されている6基の立派な銅燈籠がある。これらの燈籠は徳川御三家が奉献したもので、中央から、紀伊・水戸・尾張家の燈籠が左右に対で並んでいる。 燈籠の中台には龍のレリーフが施されている。ひとつの燈籠に8面のレリーフがあるので、総計48面ということになる。目視ではこれらの龍のレリーフは似通って見え、違いを正確に見ることが出来ない。実際に写真撮影が出来るのは、正面と左右の2面づつの5面であり、尾張家が寄進した右側の燈籠は木が邪魔して3面しか撮影できない。 撮影した龍の図柄を比較すると、夫々の家が寄進した燈籠の龍のかたちは類似しており、同じ型に流し込んで制作したのではないかと類推している。 上野東照宮の唐門にある左甚五郎の龍の彫刻はこちらよりご覧ください 上野東照宮の銅燈籠(国宝)の龍のレリーフはこちらをご覧ください 編集後記集 |