岡本太郎の『明日の神話』
【メルマガIDN編集後記 第289号 140501】

 現在は岡本太郎記念館になっている、岡本太郎がかつてアトリエとしても使っていた自宅に一度だけ行ったことがある。1970年に開催された日本万国博覧会(EXPO'70 大阪万博)の《太陽の塔》の内部は《生命の樹》というパビリオンになっており、その音響計画の打ち合わせのために、当時若かった私は上司に同行した。すっきりとした身なりの音楽を担当した黛 敏郎と、岡本太郎のくだけた格好が妙にちぐはぐだった記憶がある。
 ちょうどそのころに、岡本太郎が制作中だった巨大な壁画《明日の神話》が
、2008年11月18日より渋谷マークシティーの連絡通路の吹き抜け空間の壁に展示されている。《明日の神話》は数奇な運命を経て、修復がなってたくさんの人の目に触れるようになった。この壁画を見るといつもピカソの《ゲルニカ》が頭をよぎる。


渋谷マークシティーの連絡通路の外から《明日の神話》が見える


ピカソ:ゲルニカ 3.49M×7.766M
【ピカソ 世界の名画 17 中央公論社より】
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岡本太郎とたくさんの人との交わりを知る
【小学館 1999年】


明日の神話は人通りの多い吹き抜け空間の壁面にある


岡本太郎:明日の神話 5.5m×30m
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岡本太郎:明日の神話 中心部

岡本太郎とピカソ
 岡本太郎の父・一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学して渡欧することにした。太郎は
1930年(昭和5年)1月にパリに到着、1940年にドイツ軍のパリ侵攻をきっかけに帰国するまでの約10年間をパリで過ごした。
 パリで芸術への迷いが続いていたある日、太郎はたまたま立ち寄った画廊でピカソの作品(水差しと果物鉢)を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。

 今回この原稿を書くために目にしたものの中より、岡本太郎の
1953年のエピソードを紹介する。
 岡本太郎はパリのクルーズ画廊で個展を開催した年、「西欧から何を得てくるんですか」という問いに「こちらから与えに行く」と答えたという。
 個展を終えて、4月の中ごろミラノへ行き、用を済ませてジェノヴァを回り、ヴェンチミーレを通ってマントンから南フランスのヴァロリスにあったピカソのアトリエを訪ねた。
 『岡本太郎の世界(小学館 
1999年)』に、岡本太郎がピカソのアトリエを訪れたときの様子を書いた文章が掲載されている。これは、1953年7月の芸術新潮に掲載されたもの。
 「(前略)私は一人でしばらくぼんやりしていた。ふいに、背後の扉が開いた。音もしなかった。目のくりくりしたたこ坊主が、忽然とビックリ箱のように飛び出してきた。ピカソだ、――途端に私の手は握られていた。君だったのか。お待たせして済まなかった。(後略)」。

 時に気難しいところのあるピカソに和気あいあいと、陶器を作る仕事場やアトリエを案内してもらって別れる時の握手について書いている。「彼の手が私の手をしっかりと握る。《ピカソの手》。その感触が心臓の方まで伝わって何ともいえないセンセーション。先ほどは夢中で気が付かなかったが、こんなに味が深く、感動を呼び覚ます握手は初めてだ(中略)変な話だが、今でもピカソの印象の中で実はこの小さな手のセンセーションが一番じかに私の思い出に食い入っているのである(後略)」。

ピカソのゲルニカ
 
2004年に、バルセロナのピカソ美術館を訪れてたくさんのピカソを見て、2007年に再びピカソ美術館に、数日後にマドリードのソフィア王妃芸術センターで念願の《ゲルニカ》に出会うことが出来た。

 ピカソの《ゲルニカ》は、岡本太郎がパリを離れる3年前の
1937年に描かれている。スペイン内戦の最中、フランコ軍を支援するドイツ軍の爆撃はスペイン北部の小さな町のゲルニカを一瞬にして地獄に変え、約2,000人の市民が死傷した。1937年4月26日のこと。
 パリでゲルニカ空爆の知らせを受けたピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館で展示される予定の壁画を製作していたが、急きょテーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ、縦3.5m、横7.8mの大作《ゲルニカ》を6月4日には完成させた。

 白黒で表現されたモノクロームの大画面には、闘牛をモチーフに、燃える家、空爆の犠牲となった子供を抱えて泣き叫ぶ母親、逃げまどい苦しみ叫ぶ人々や動物の様子が描かれている。
 左上にあるランプが爆弾、左下で倒れている人物はピカソ自身であるともいわれる。

《明日の神話》の数奇な変遷と再生
 岡本太郎は、
1967年に来日したメキシコ人実業家から、メキシコシティに建築中の「ホテルのロビーを飾るための壁画を描いてほしい」と壁画の制作を依頼される。1968年にメキシコへ行き、専用アトリエに入り、制作をはじめる。以後、《太陽の塔》の仕事の合間をぬって何度もメキシコへ足を運び、制作を続けて壁画制作に取り組んだ。

 
1969年 に、ほぼ完成した壁画をホテルロビーに仮設置し、最終仕上げの段階を迎えるが、依頼者の経営状況が悪化し、ホテルは未完成のまま放置された。その後、ホテルが人手に渡り、《明日の神話》もロビーから取り外されて各地を転々とするうちに行方がわからなくなった。

 
2003年に、メキシコシティ郊外の資材置き場に保管されていた壁画が発見され、岡本太郎記念館館長だった岡本敏子が現地に行って岡本太郎の《明日の神話》であることを確認する。2004年 (財)岡本太郎記念現代芸術振興財団内に再生プロジェクト事務局が発足。2005年に100個以上に分かれた壁画の断片を船で日本へ移送して、絵画修復の専門家吉村絵美留らが作業を行い、2006年6月に修復を終え、同年7月に汐留で一般公開された。たくさんの引き取り希望の中より渋谷マークシティー連絡通路内に展示が決まった。

明日の神話
 《明日の神話》は原爆の炸裂する瞬間が描かれている。画面中央に炸裂する原爆、空には真っ黒な雲、画面を引き裂いて走る真っ赤な炎は強烈である。被爆した第五福竜丸が描かれ、逃げまどう人と動物、虫や魚などの生きものたちが逃げ惑う姿に、この世の地獄を見る。

 しかし、岡本太郎と共に過ごし、この絵の修復と再生に尽力した岡本敏子は、「この絵は岡本太郎の最大、最高の傑作である」とし、「だがこれはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、 酷い、被害者の絵ではない」、「画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる」、「その瞬間、 誇らかに《明日の神話》が生まれるのだ」と書いている。

エピローグ
 渋谷の人ごみの中を歩いているときに、渋谷マークシティーの連絡通路の奥に《明日の神話》が見えた。井の頭線の方から階段を上がって、もう一階分の階段を上がったところの斜路は意外に静かで、ゆっくりと壁画を見ることが出来た。
 まず、この絵の巨大さと迫力に圧倒される。絵の構成はダイナミックであるが、細かいところまで描いてあることがわかる。この絵を見ながら、ピカソの《ゲルニカ》を思い出した。
 ピカソは《ゲルニカ》への爆撃による市民の苦しみと、ピカソの怒りをこの絵に表現している。岡本太郎は、原爆を投下されて残酷で悲惨な苦悩を描いているが、
人類の未来の歓喜に希望を込めて描いていることを岡本敏子より教わった。
 個展を行うためにパリへ行くときに「こちらから与えに行く」と壮語した岡本太郎が、「ピカソを超える」ことができているかと問うても詮無いことである。《明日の神話》に岡本太郎の縄文的な闘う姿を感じることが出来て痛快である。

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