久しぶりに奈良へ行き、平等院、唐招提寺、興福寺、法隆寺、東大寺、春日大社を訪れた。奈良の観光そのものであるが、修理を経て新しくなった、平等院と唐招提寺、式年造替途中の春日大社を見ることも狙いのひとつ。法隆寺には、金堂の龍のこともあり最優先、東大寺の二月堂には手水舎の龍との出会いを期待した。
修理して甦る寺 <平等院> 平成24年9月に始まった鳳凰堂の修理が尾廊部分を除き平成26年3月末日で竣工し、4月1日より拝観が再開され、鳳凰堂内部も落慶法要と準備を終えて、4月3日から拝観が再開された。 鳳凰堂の姿は軽やかで美しく、青銅製の鳳凰像に金箔を二重に施した鳳凰の姿(前号のメルマガIDNのトップの写真)はまぶしく、建物に使われた朱色が予想に反して落ち着いた色であることが印象に残った。 <唐招提寺> 唐招提寺は1998年4月に、金堂修理の為の調査事業が着手され、2000年1月より、金堂修理事業開始され、2009年11月に金堂平成大修理落慶法要が執り行われた。 工事の内容については、TBSのテレビ番組《唐招提寺2010プロジェクト》で仔細に見てきた。修理が開始された時点では、10年以上も先の終了後の姿を見ることが出来るだろうかと心配したが、《金堂平成大修理》を終えた優美な姿を再び見ることが出来た。 <春日大社> 式年造替(しきねんぞうたい)という儀式は、神さまが鎮まる神殿や、御殿の中に納める御神宝などを造り替え、御修繕を行うことによって、御神威のさらに若々しく力強い発揚を願う、日本人固有の信仰に基づいて行われるものであり、当社では創建以来ほぼ20年毎ご奉仕されてきた。平成19年の一ノ鳥居より始まり、平成28年の本社本殿の正遷宮をもって完了する予定である。 法隆寺と梅原 猛の『隠された十字架』 参道を歩きながら、西院伽藍に向かう時のわくわく感は何回味わってもいいものである。真夏の灼熱の太陽のもとで訪れるのも強烈な体験であが、今回は穏やかなこの季節、就学旅行の生徒さんたちが現れる少し前の時間帯に中門に向かうと、いつもの美しい佇まいを見せてくれた。 法隆寺の中門を通る時に必ず思い出すのは、梅原 猛が1972年(昭和47)に発表した『隠された十字架』のこと。 法隆寺の縁起には以下のように書いてある。用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願したが、その実現をみないままに崩御した。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊《薬師如来》を造ったのが法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれている)であると伝えている。 法隆寺は、聖徳太子が仏教興隆のために建てた寺、太子ゆかりのひとびとが太子の徳をたたえるために建てた寺、というのがそれまでの通説だった。 梅原 猛は、法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、王権によって子孫を抹殺された聖徳太子と一族の怨霊を鎮魂し封じ込めるために、藤原不比等によって再建された寺なのではないか、との仮説を世に問うた。 梅原は、大胆な仮説に説得力を持たせるため、飛鳥から奈良への遷都、『古事記』、『日本書紀』のもつ意味、藤原氏と法隆寺の関係、平城京に藤原氏が建てた氏神(春日大社)と氏寺(興福寺)などの古典や史料、論考などを論拠として提示した。 普通、寺院の門は3間、大規模のもので5間であるが、中門の中央に柱が立っているのはおかしい、と言うところも梅原説の論拠となっている。 「金堂と塔に太子一族を祀り、その二つの建物を回廊でとりかこめ。霊を外に出さないように、門の真ん中に柱を建てよ」、と梅原は書いている。 歴史学の研究者のあいだでは、梅原説には概ね批判的であるとされる。私にとっての『隠された十字架』は、彼の著作である『塔』、『飛鳥とは何か』、『神々の流竄(るざん)』などと共に、この時代の歴史に対して興味を持ち、歴史を学ぶのを助けてもらった重要な書である。 興福寺の高台より南方に思いを馳せる 藤原鎌足が重い病を患った時に、夫人の鏡大王が夫の病気平癒を祈願して、山背国山階に山階寺(やましなでら)を創建、壬申の乱のあと山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺と称した。 厩坂寺は、平城遷都の際、藤原不比等によって平城京左京の現在地に移され、興福寺と名付けられて実質的な創建年とされる。興福寺は法相宗の大本山である。 興福寺の高台より南方を見れば、眼下に猿沢の池があり、池の横を南に歩いて行った先の西側にある元興寺が目に浮かぶ。 蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)は、その後飛鳥寺と呼ばれ、平城遷都とともに現在の地に移設させられて、元興寺と名付けられた。 梅原 猛は、『隠された十字架』の中に以下のようなことを書いている。 元興寺は興福寺に対してつけられたに違いない。今興っている藤原氏の寺に対して、元興って今は滅んだ蘇我氏の氏寺を意味する。興福寺を奈良の都(の高台)に、興福寺の真南に元興寺を移転させることは、藤原氏が蘇我氏に代わって仏教を掌握することを示す。 さかのぼれば、物部氏との宗教戦争に勝利した蘇我氏が王家を支えて栄え、入鹿が聖徳太子の息子である山背大兄王子をはじめとする子孫一族を滅ぼし、その後の大化の改新、壬申の乱(これは王家の内乱)を経て、王家を支えるのが、蘇我氏から藤原氏へ移ってゆく。興福寺と元興寺はこの時代の大きな変化のうねりの象徴と見ることが出来よう。 いつみても堂々としている五重塔、工事が進んでいる中金堂、国宝館にいる仏像たち、これらに興福寺の隆盛を見るが、興福寺は秘めた古い歴史を持つお寺でもある。 奈良での龍たちとの出会い 法隆寺金堂の二層目の軒を支える龍との出会いは、龍楽者にとって今回の旅行の望外の成果だった。金堂の二重目の屋根の軒を支える四周の柱に龍の彫刻が施されている。 四方にある柱の龍は、昇り龍と降り龍が各2体ずつあり、構造を補強するため修理の際に付加されたもの。その年代については諸説あるとのこと。 何時、誰が、何のために取り付けたか興味があり、きっかけがあれば深みにはまってみたいと思う。 今回歩き回っただけで、6か所の手水舎で龍に出会った、法隆寺の2体と東大寺二月堂の1体は大変に特徴のあるもの。興味のある方は、私のサイト《龍の謂れとかたち》でご覧いただきたい。 エピローグ この原稿を書くために、『隠された十字架』をあらためてすべて読んだとは言わないが、一応目を通した。若いころに梅原 猛の筆の勢いに洗脳されている感があるが、私にとって、法隆寺、興福寺、春日大社、これに元興寺を加えてひとつの系となっている。 これらのお寺は蘇我氏から、長期にわたって確固たる地位を築いた藤原氏への主役の交替を物語る舞台であり、実際にその場所を尋ねて古い歴史に思いを馳せた。 編集後記集 |