ニューヨークのワールド・トレード・センター・コンプレックスは、7つのビルによって構成されていたが、WTCとは、そのシンボルであるツインタワー(1973年竣工)のことをいう。WTCは完成時に世界一の高さを誇り、ニューヨークのシンボルであり、ランドマークだったが、あの忌まわしい事件で姿を消してしまった。テレビで見た映画の一シーンのような記憶は生々しく残っている。13年目に振り返って、WTCのことを記してみたい。
9・11のあらまし 9・11は2001年9月11日にアメリカで同時多発した航空機を使った4つのテロ事件の総称である。航空機が使用された大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。 ほぼ同時にハイジャックされた4機のうち2機はボストン発ロサンゼルス行きの便(ボーイング767-200型機)だった。ハイジャッカー達は操縦室に侵入して乗っ取った飛行機を操縦しニューヨークのマンハッタンへ向かわせた ハイジャックされた便は、いずれも北米大陸を横断する長距離ルートを飛行する便であり、燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測されている。 ボストン発ロサンゼルス行きアメリカン航空11便は、乗客81名と乗員11名を乗せて、午前8時46分にWTCの北棟に突入し爆発炎上、ユナイテッド航空175便は、乗客56名と乗員9名を乗せて、WTC南棟に突入し9時3分に爆発炎上した。 損傷が大きかった南棟が9時59分に上部から砕けるように崩壊し、北棟も10時28分に南棟と同様に崩壊した。 1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に2機目が激突したために、2機目の激突の映像を世界の多くの人たちがリアルタイムで見る事になった。 <被害> 北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、8時間後に敷地北隣の世界貿易センター7号棟も崩落した。道路は完全に封鎖され、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。 世界貿易センタービルでの死者数には2,602人とされている。この中には、ニューヨーク市消防署の消防士343人、ニューヨーク市警察の警察官23人、ニューヨーク港湾管理委員会の職員37人が含まれている。 なお、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還していると言われていることも付け加えておきたい。 WTCの建物 ワールドトレードセンターは、7つのビルによって構成された《ワールドトレードセンター・コンプレックス》と呼ばれ、ニューヨーク市のローワー・マンハッタン(マンハッタンの南端)に位置していた。5万人の勤務者と一日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィスであり商業センターだった。 <設計者> ツインタワーのWTCを設計者したミノル・ヤマサキは1912年12月にワシントン州シアトルで生まれた。ワシントン大学卒業後、ニューヨーク大学で修士号を取得した日系二世のアメリカ人建築家(~1986年2月)。WTCの構造設計を担当したのはレスリー・ロバートソン、エメリー・ロス・アンド・サンズ。 <建物の特徴> WTCビルのツインタワーには、ヤマサキが発案した《チューブ構造》が採用されている。このビルは、建物の中心部にエレベーター、階段、配管用のシャフト等の構造的に強いコアを配し、中心のコアから四周に梁を架け、建物を支える外壁の鉄柱と固定した。 窓枠に相当する外壁の柱は鉄骨の柱であるが、建物全体として見れば、ちょうど鳥かごのような構造になっている。 外壁部分に建物を支える縦の柱を並べることによって、オフィス内に柱をなくすことができるという構造方式である。ビルの有効面積を大きくし、賃料収入をより多く得ることができるところに特長がある。 <WTCはなぜ壊れたか> ツインタワーは、当時の主力ジェット旅客機のボーイング707が突入し、衝突面の外部に配された鉄骨の柱列の3分の2が壊されても崩壊しないように設計されていたはずだった。 しかし、ボーイング767によって外壁が損傷され、漏れ出したジェット燃料は縦シャフトを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生した。構造を支えていた外壁の柱列が溶解することで、それより上部の階が落下し、その重さによって次々に床が破壊され建物の倒壊に至ったとされる。この倒壊は、チューブ構造の構造的欠陥とされ、ドミノ崩壊といわれている。 WTCの思い出 WTCの最も強い思い出は1982年にニューヨークへ出張した時に、マンハッタンをヘリで遊覧し、WTCのすぐそばを飛行し、建物の外壁をすぐ真近かで見たことである。 ヘリは、国連ビルのそばを飛び立って、イーストリバー上を北上、セントラルパークを過ぎたところで西に方向を変えて、ハドソン川に出たところで、南に曲がり南下する。 ヘリはWTCのすぐそばを飛び、自由の女神像のそばまで飛行する間、ローアー・マンハッタンとWTCを遠望し、再びイーストリバーに戻って来た時にWTCに近づき、建物の側面と足元を見る。 1982年のこの頃は、ハドソン川の河口を、WTC等の建設の際に排出した土砂を利用して埋め立てて造られた土地にバッテリー・パーク・シティの大規模開発が行われていた。上空からその様子を見ることが出来た。 ヘリは、エンパイヤ―ステートビル、クライスラービル、PANAMビルなどを左に見ながら、飛び立った国連ビルのそばのヘリポートに降りた。 もう一回の強い印象は、1998年12月の《MVL(マルチメディア・バーチャル・ラボ)海外動向調査》の時に飛行機の窓からマンハッタンのスカイラインを見たこと。この調査には、今日脚光を浴びているバーチャル・リアリティやウエアラブル・コンピュータなども調査対象に入っていた。 この旅では、景気の良かったころのアメリカのクリスマスを満喫し、アメリカ滞在の最後の夜に、カーネギーホールでステファン・グラッペリのコンサートを聴いた。 11時過ぎにコンサートが終了し、57Stから38Stにあるホテルまで歩いて帰った。途中、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーを見に立ち寄ったりして遅くなった。ホテルに戻ってから出発の支度をし、その夜はほとんど寝ていない。 ダラス空港を飛び立ってすぐに右前方にマンハッタンのスカイラインが見えた。WTCはまだ健在で、これがWTCの見納めとなった。 エピローグ 事件から13年経って、グラウンド・ゼロの再開発が進んでいるという新聞記事に触発されて、WTCの写真を2枚、Facebookに投稿したら反響があった。 WTCのレストランで食事をした方、ツインタワーが建つ前にこの一角にサーティーチャーチストリート(30 Church Street)というオフィスビルがあり、1962年にニューヨークに赴任した時そのビルの中に事務所があったが、1年後にWTC建設のため立ち退くことになったと、52年も前のことを書いてくださった。 事件発生から13年目でもあり、WTC(ワールド・トレード・センター)のことを振り返ってみようと思い立った。【生部 圭助】 Digibook ニューヨーク空中散歩はこちらよりご覧ください 編集後記集 |