波の伊八は龍の彫刻でも魅了する
【メルマガIDN編集後記 第299号 141001】

 波の伊八は、外房の荒海を象徴するような《波》の浮き彫りが独得の作風とされ、職人仲間では「関東に行ったら波を彫るな、彫ったら笑われる」と語られていたという。伊八は、波のみならず、龍の彫りも巧みで、房総南部を中心に、神奈川、東京にまたがり、神社や寺院の向拝や欄間の龍の彫刻などにすぐれた作品を多く残した。寺院の境内や欄間に置かれる龍は仏法を守護する八部衆の一つであり、龍楽者として、伊八の龍の彫刻は見逃すことのできない存在である。
 今回は、伊八の晩年の作である飯尾寺と称念寺の欄間の龍の彫刻を紹介する。


飯尾寺のアプローチ


飯尾寺の欄間の波と龍の彫刻


二体の龍


称念寺の本堂


称念寺の本堂の《龍三体の図 欄間三間一面》
【写真:『文化協会だより 第2号』より】

波の伊八
 初代武志伊八郎信由は、宝暦2年(
1752)に、安房の国長狭郡下打墨村(現在の千葉県鴨川市西条地区打墨)に生まれ、1824(文政7)年に没した宮彫師。伊八の名前は、初代から五代にわたり、およそ200年後の、昭和29年まで受け継がれた。

 伊八は上総植野村の嶋村貞亮(市東半平)の弟子として腕を磨いたとされる。作品は江戸中央の様式にとらわれることなく、房総南部でこの地域の人々の求めに応じながら自分自身の裁量で自由に腕を振るった。伊八の作風は、自由でダイナミック、おおらかさとユーモアがあり、江戸期の長狭郡の《鴨川人》の気質、美意識をよく反映し、年代とともに変化してゆく様式からは、な柔軟性が感じられる。

 伊八が最も重視した点は、自分の作品をいかに寺社の建築空間に結び付けるかというところ。伊八の作品には、見る人の視点からの距離や角度に対応した工夫が施されている。彼の作品は建築空間に収められて初めて最大限の表現効果を発揮する。

 彼の彫刻は薄い材を用いていながら、実際以上のボリューム感や立体感を感じさせる。それは、伊八が、見る人の視点による遠近法的な表現を意識的に、巧みに使いこなしているからである。

飯尾寺
 飯尾寺は千葉県長生郡長柄町山根にあり、顕本法華宗の寺院で山号は威王山という。飯尾寺の創建年代等については不詳であるが、もとは鎌倉時代から室町時代にかけてこの地方を領した飯尾氏が建立した仏堂に始まる。
 南北朝時代の僧で法華宗妙満寺派(現在の顕本法華宗)の祖日什(
1314年~1391年)が開山となり妙満寺派の寺院となったと伝えられる。

 重要文化財である木造の不動明王坐像は鎌倉末期の作品。《飯尾の不動さま》として九十九里沿岸の人々の海難援助の霊験ありと信仰を集めた。

欄間にある龍の透かし彫り
 本堂の欄間にある透かし彫りは、刻名が武志伊八郎伸由とあり、 制作年は文化11年(
1814)とされ 伊八が63歳の時の作。昭和51年(1976)に長柄町の有形文化財に指定された。
 この欄間には、波と波間に泳ぐ大小二体の龍が彫られている。飯尾寺の欄間は伊八の晩年の作で、波と龍をあわせた伊八の円熟した技巧が十分に発揮されている。

称念寺の本堂の《龍三体の図 欄間三間一面》
 称念寺は千葉県長南町千田に所在する浄土宗寺で、山号は唐竺山、院号は西明院。寺伝では徳治2年(
1307)時宗第二祖他阿真教上人の開祖とされる。慶長年間(1596-1615)に至り浄土宗に改めた。
 境内正面の山門、中門(向唐門)、本堂が一直線に並ぶ伽藍配置となっており、参道から進むにしたがって、山門、中門、の順に敷地が高くなっている。

 欄間は、文化11年(
1814)6月着工、同年中に完成。刻名の文政6年(1823)11月は後銘であり、完成の約9年後に銘を刻んだ。
 中央正面の昇り龍は尾が天井まで巻き上がり、四肢と火炎とのひらめきが無限の広がりを連想させる。これに対する左右の降り龍が荒波に勇躍している。

 伊八の作品には彩色を施しているものが多い。称念寺の八方にらみの龍の鱗は、左を白、中央を青、右を紅で染めている。【説明は現地の長南教育委員会の看板を参照】

エピローグ
 龍を訪ねるものにとって、向拝にある彫刻は簡単に見ることが出来るが、本堂の欄間の彫刻は見せてもらえない、見せてもらっても写真撮影を許してくれないことも多い。称念寺は、本堂の正面の扉のガラス越しに内部を見ることが出来るが、写真撮影は出来ない。

 飯尾寺は時々プレイするゴルフコースのすぐそばにある。飯尾寺に電話で尋ねてみると、正面の扉が開くのは、お彼岸と大晦日であるとの返事だった。ゴルフの帰りにロケハンのつもりで立ち寄った。本堂の正面の扉のガラス越に内部を覗くことはできたが、ガラスが邪魔して写真撮影には全く適さない。しかし、正面の引き戸の下寄りに15cm角ほどの小窓があり、そこにレンズを差し込む形で撮影した。

 これまでに、房総や東京にある伊八の龍の彫刻のいくつかを見に行ったが、飯尾寺の龍の彫刻と、称念寺の本堂の《龍三体の図 欄間三間一面》の作風が似通っている。制作の年代を調べてみて、伊八晩年の同じ年の作であることが分かった。

 伊八のエピソードをもう一つ。行元寺の欄間にある伊八の彫刻《波に宝珠》は、同世代に活躍した葛飾北斎の《富嶽三十六景》の代表作のひとつ、《神奈川沖浪裏》などの画風に強く影響を与えたといわれている。
 これは《仮説》とした方がいいかもしれないが、頷づけるところがある。伊八と北斎については、『メルマガIDN編集後記 第146号 080501』に書いているので興味のある方はお読みいただきたい。


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