沖縄で出会った龍~その1 首里城の龍
【メルマガIDN編集後記 第306号 150115】

 龍楽者としては、かつてより沖縄の龍を見たいと願っていた。2014年11月末に那覇へ行く用があり、2日間の仕事の前後に、念願だった龍を見る機会を得た。那覇市と浦添市まで足をのばし、首里城の龍の他、いくつかの龍を見ることが出来た。今回は、琉球と沖縄の歴史に簡単に触れ、首里城の外部と内部に飾れている龍を、次号で、那覇とその周辺で出会ったいくつかの龍の謂れとかたちについて紹介する。


首里城正殿


首里城正殿 正面


首里城正殿 唐破風妻飾の金龍と瑞雲

   
正殿前の大龍柱と石段上の小龍柱
左が吽形 右が阿形


唐破風の龍頭と棟飾り


2階 御差床(うさすか)
高欄には正面に一対の金龍柱が立つ


扁額の下、なげしの龍のレリーフ(部分)


龍樋
龍樋の水は龍潭池にそそいでいる


龍潭池の向こうに首里城を望む
池は龍頭形に作られている

古琉球から沖縄へ
 12世紀のグスク(御城)時代にはじまり、琉球王国をへて、
1609年の島津侵入までの時代は、総称して《古流球》とよばれる。

 12世紀になると農耕社会が形成され、各地には按司(アジ)とよばれる指導者が誕生して、砦としてのグスクを築き、互いが勢力を争う《グスク時代》を迎える。
<三山時代>
 14世紀になるとより強力な3つの勢力があらわれ、沖縄島を南部・中部・北部に分断してそれぞれの地域を支配した。これが《三山時代》と呼ばれ約100年続いた。良港を抱えていた三つの勢力は、中国との交易を積極的におこない経済力を拡大していった。

 14世紀には、中国が東アジアの中心的役割をになう新秩序が形成され、日本をふくむ周辺諸国と交易をおこなうようになった。沖縄近海をふくむ東シナ海は、多くの船が出入りする交易の場となり、琉球列島は商人たちが行き交う中継地点としてにぎわった。

 
1368年に中国に明朝が成立し、盟主としての中国と臣下としての周辺諸国の位置づけを明確にし、明の皇帝に忠誠を誓う国に対してのみ、交易を許すという中国を中心とした東アジアの国際秩序「冊封体制(さくほうたいせい)」が確立された。

<第一・第2尚氏王統時代>
 15世紀にはいると、南部の佐敷(現・南城市)按司の子・尚巴志(しょうはし)が三山の統一をなしとげて第一尚氏王統を築き、首里城を中心として琉球王国が誕生した(
1429年)。

 尚円(
1470-1477)により、第二尚氏王統時代が始まり、明治初期の《琉球処分》まで琉球王国の統治が継続する。琉球王国も東アジアを舞台に築いた大交易時代を築いた。

<島津侵入>
 16世紀をむかえるとそれまで、友好的な貿易相手国であった日本と琉球との関係にも、変化があらわれはじめた。薩摩の島津氏は、
1609年に武力をもって琉球へ侵攻し(島津侵入)、武力の弱い琉球は薩摩の支配下におかれることになった。

<沖縄県設置>
 琉球王国は、江戸幕藩体制のもとで薩摩藩の支配を受け、明治にはいると沖縄県設置(琉球処分)で王国は消滅し、
1879年に沖縄県が誕生した。

首里城(スイグスク)
 首里城は14世紀末に創建されたが、城の型が整ってきたのは、16世紀初めの琉球王朝の全盛期、尚真王時代(在位
1477~1526年)だった。那覇の街を見下ろす丘陵に、東西400メートル、南北200メートルの楕円(だえん)状の敷地をもつ最大規模の城(グスク)がつくられた。政権交代はあったが首里城は450年にわたり琉球王朝の王城で、南海の王国としての琉球の象徴だった。

 大正14年(
1925)及び昭和8年(1933)には首里城の正殿及び歓会門、守礼門などが国宝に指定された。
 城は幾度か焼失の憂き目に遭い、用途も軍の駐屯所などに転用されたが、修理を重ねながら何とか原型は保った。

 しかし、昭和20年(
1945)の太平洋戦争末期の沖縄戦で、首里城は日本軍の司令部壕があったことから集中砲火を浴び完全に破壊された。戦後は、跡地に琉球大学が建設されたことにより、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残るのみとなった。

 アメリカ統治時代の昭和32年(
1957)に遺構の上に園比屋武御獄石門が復元された。平成元年(1989)から正殿の復元に着手、平成4年(1992 本土復帰20周年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。

 首里城は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコ世界遺産に登録されているが、世界遺産の対象となったのは首里城跡の遺構部分のみが対象で、復元された部分は除外されている。

首里城正殿

 首里城の正殿(せいでん)は、中国の宮殿と日本の禅寺を合わせた様な折衷型と言えるもので琉球独自の形式である。随所に龍などのアジア風の装飾があり、3つの文化が融合している。首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られている。なお、下地の一部は漆である。
 正殿の前に広い前庭(御庭 うなー)がある。御庭には磚(せん 敷き瓦)というタイル状のものが敷かれている。 この色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた

一階の《下庫理(しちゃぐい)》と二階の《大庫理(うふぐい)》
 正殿は木造の3階建で、1階は《下庫理(しちゃぐい)》と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場があり、2階は《大庫理(うふぐい)》と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う。
 特に2階の御差床(うさすか)は絢爛豪華な意匠となっている。高欄の正面に一対の金龍柱、国王の椅子の龍の飾り、両側にある朱柱(金龍柱)、なげしの龍の飾り、扁額の周囲の龍など、龍りをたくさん見ることが出来る。

龍樋

 《龍樋》は瑞泉門に向かう石段の右手前にある。龍の口から湧水が湧き出していることから《龍樋》と名付けられた。尚巴志(しょうはし)が国相・懐機(かいき)に命じて造らせたといわれている。
 龍樋の水は、王宮の飲み水として使われていた。中国からの使者である《冊封使(さっぽうし)》が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった宿舎《天使館》まで、毎日この水が運ばれたといわれる。
 龍の石彫刻は、
1523年に中国からもたらされた当時のままのもの。首里城のほとんどは復元された建築物や彫刻なので、この《龍樋》は当時の姿そのままを見ることが出来る貴重な彫刻である。
 龍樋の水は、円鑑池に流れ、龍淵橋の下をくぐって龍潭池にそそいでいる。

龍潭(りゅうたん)池

 《龍潭池》は沖縄県那覇市にある池で、魚小堀(イユグムイ)とも呼ばれる。
1427年、琉球王国の第一尚氏王統・第2代尚巴志王の命により、国相懐機が作庭したといわれる人工の池。
 大池は龍頭形に作られ、池の周囲416m、面積は
8,400㎡。 冊封使滞在中の重陽の日(旧暦9月9日)には冊封使一行を歓迎するため、池に龍船を浮かべ船遊びの歓待の宴が行われた。首里城が水面に映り、琉球随一の名勝地であったといわれている。

エピローグ
 首里城における龍の飾りは、外も内も必ず阿吽の形の対になっているのは見事である。写真撮影に十分な時間をとることができまかったが、ホームページ《龍の謂れとかたち》の特集《沖縄で出会った龍》に首里城の外部と内部を分けてアップした。
 興味のある方はご覧ください。

首里城(外部)はこちらでご覧ください
首里城(内部)はこちらでご覧ください


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