絵馬は、神社や寺院に祈願するとき、また、祈願した願いが叶ってお礼をするときに寺社に奉納する、絵が描かれた木の板のことをいう。
奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬(神馬)を奉納したと記されている。しかし、馬は高価であり、奉納された寺社の側でも世話をするのが大変であり、木や紙や土で作った馬の像で代用するようになった。平安時代から板に描いた馬の絵で代えるようになり、これが今日まで続いている。小型の絵馬については五角形(家型)の物が多いが、これは板の上に屋根をつけていた名残である。
水神厳島神社・江島大明神にある江島弁財天の龍の絵馬 柳森神社は東京都千代田区神田須田町にある。長禄元年(1457)に、太田道灌が江戸城を築城した際に城の鬼門にあたる神田川の土手に植えた柳が繁茂し、これが柳森神社の名前の由来となった。 境内社である「水神厳島神社・江島大明神」は、柳森神社に祀られている末社のひとつ。右側の龍の置物の後ろに絵馬があった。この絵馬には《昭和戊辰》と書いてあるのが見て取れる。 昭和の戊辰((つちのえたつ・ぼしん)は昭和3年と63年であるが、昭和63年(1988)のものと見るのが妥当であろう。 この絵馬を撮影したのは2009年のことであり、今も存在しているかは確かめていない。 江島神社の絵馬 2012 ここに紹介する絵馬は2012年の辰年の絵馬であり、柳森神社の「水神厳島神社・江島大明神」にある絵馬が昭和63年のものと仮定すると、それから24年後のものというここになる。 江の島弁財天のお札所で柳森神社にあった絵馬の写真を見せたが、何時のものであるか、わからないとのことだった。 天照大神須佐之男命と誓約された時に生まれた三姉妹の女神を江島大神と称している。古くは江島明神と呼ばれていたが、仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、 海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として、今日まで仰がれている。 欽明天皇13年(552)に、天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりとされる。江の島は、鎌倉時代の頃までは全島が信仰の対象とされて、みだりに島へ渡ることはできないようになっていたが、江戸時代には弁天信仰の地として栄えた。 深川不動堂の龍の絵馬 2012 江戸元禄年間は、江戸町民を中心として不動尊信仰が急速に広まった。江戸町民が成田山のご本尊不動明王を江戸で参拝したいという機運が高まり、元禄16年(1703)4月に不動明王の出張開帳が行われた。 江戸まで1週間かけて捧持され、2ヶ月間開帳されて、江戸町民に人気を博した。この開帳の場所が深川永代寺境内であり、深川不動堂の始まりとされる。 明治2年に現在の地に深川不動堂の正式名称が認められ、明治14年に本堂が完成したが、大震災と戦災で消失した。ご本尊は災禍を免れ、昭和26年に当時印旛沼のほとりに建っていた竜腹寺を移築し(竜腹寺境内にある記念碑にもこのことが記されている)本堂として復興、平成3年に大改修を施行した。 深川不動堂では毎年十二支の絵馬がそろうが、ここに紹介するものは2012年の辰年の十二支のひとつである。 北野天満宮の絵馬 2012 菅原道真公(菅公)を祀った神社の宗祀(最も中心になるものとして尊びまつる)、親しみを込めて《北野の天神さま》と呼ばれている。 平安時代中頃の天暦元年(947)に、当所に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まり。 その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念され、この時から「北野天満宮天神」の神号が認められる。 現在、全国各地には菅公を祀った神社が、およそ12,000社とも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社である。 菅公は世々に「文道の大祖・風月の本主」と仰ぎ慕われ、学問の神様としての信仰は昔も今も変わることなく人々の生活のなかで受け継がれている。 ここに紹介する2012年の干支絵馬は、三輪晃久画伯の作画をもとに調製されている。三輪晃久画伯は、昭和9年(1934)生まれ、京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)を卒業、日展評議員。 安房神社の絵馬 2012 安房神社の創始は、神武天皇が初代の天皇として即位した皇紀元年(紀元前660年)。神武天皇の命を受け天富命は肥沃な土地を求め、最初は阿波国(現 徳島県)に上陸。 その後、天富命一行は更に肥沃な土地を求めて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸。天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、自身の先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命を祭る。これが現在の安房神社の起源。 ここに紹介するのは、2012年の安房神社の絵馬。 目黒不動尊の絵馬 目黒不動尊は天台宗泰叡山滝泉寺と号す。熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動のひとつとされる。大同3年(808)に慈覚大師円仁が開創したといわれる。 家光が堂伽藍を造営し、以来幕府の保護があつく江戸近郊における参拝行楽の場所となる。戦災で大半が焼失したが、再建された。 大本堂外陣の天井に川端龍子の龍の絵がある。ここに紹介するのは、この天井の絵を絵馬にしたもの。この天井絵を写真撮影することは許されていないので、この絵馬で、龍子の絵を偲ぶ。 十二支の絵馬による「江戸刻」 日本の風 2004年12月に半蔵門に開店したデザイン工房「日本の風」は、日本文化に関する展示会、教室、まちづくり、日本研究など伝統文化を尊重しながらも新しい時代にあった日本文化を紹介する場を提供していた。 壁面に飾られている「江戸刻」はユニークな時計であり、十二支の絵馬が時を示している。 この絵馬はすべて軽井沢の神宮寺のものであり、この店の主である西邑(にしむら)さんが12年かけて集めたもの。「日本の風」は閉店して今はない。 エピローグ 2012年の辰年に、辰の絵馬がたくさん出回った。今回紹介した絵馬のうち、北野天満宮、安房神社の2012年の絵馬は頂き物である。 私のことを龍楽者と知り、旅先で絵馬を求め、お土産にくださる方も多い。 2012年以外の絵馬としては、上総国一ノ宮、熊野那智大社、九頭龍神社(箱根神社)、日光東照宮などの頂いた絵馬がたくさんある。「龍の謂れとかたち(カテゴリー170:祝儀袋・納札・絵馬・御守り・凧)」では、今回取り上げたものも含めて16枚の龍の絵馬を紹介している。 龍の謂れとかたち 編集後記集へ |