高柴デコ屋敷~三春駒と三春張り子の発祥地~
【メルマガIDN編集後記 第320号 150815】

 デコ屋敷は、雪解けの春に、梅・桃・桜が一斉に花開くことで名付けられた三春の近くの郡山市西田町の高柴にある。デコ屋敷には、郷土民芸品づくりの工房が4軒あり、伝統の技を引き継ぎながら、新しい可能性を追究している
 また、ここ高柴地区に伝統的に継承された張子の面を使った、郡山市指定重要無形民俗文化財の「高柴七福神踊り」、「ひょっとこ踊り」などの独自の文化も根付いている。
 龍楽者にとって、デコ屋敷でつくられている張り子の龍に興味がある。以前に銀座の夏野で購入した張り子の龍が、デコ屋敷でつくられたものと教えられたが、どの工房でつくられたかわからず、機会があったらぜひ一度訪れてみたいと考えていた。2015年の夏の最も暑い日にその機会を得た。


恵比須屋 橋本広司 内部の展示


恵比須屋 広司さんの母親のアサさん(94歳)は現役です


本家 恵比須屋の当主の橋本恵市さん


本家 恵比須屋の十二支の張り子


彦治民芸は築400年の茅葺の家


彦治民芸の10代目当主の橋本高宜(たかよし)さん


本家 大黒屋の外観 正面


本家 大黒屋 作品


三春駒や三春張り子人形の発祥
 現在の郡山市西田町高柴は、かつての三春藩領高柴村。縄文の頃から土偶が人形の始まりといわれ、やがて木を人の形に彫った木偶も現れて、「デク」または「デコ」と呼ばれた。
 今から約300年前の江戸元禄時代に、和紙を使った張り子の人形と、木彫りの三春駒がこの村で作り始められた。
 この高柴村の工人集落は、いつの頃からか「デコ(でこ)屋敷」と呼ばれるようになった。江戸時代に三春藩領であったため、ここでつくられる郷土民芸品は「三春駒」とか「三春人形」と呼ばれるようになった。

張り子の作り方
 三春張子は、木目が柔らかく、彫り易い山柳を使った木型に和紙を貼り、乾燥した後の紙張りから木型を抜いて、膠(にかわ)で切れ目を閉じ、飾り物や持ち物などの部品や小道具を膠で取り組んで原型を作る。
 絵付けの下地として膠で溶いた胡粉(ごふん)を刷毛で全体に塗り、顔料や染料を使って、それぞれ特徴のある表情を絵付けして作られる。

恵比須屋 橋本広司民芸
 恵比須屋 橋本広司民芸は、デコ屋敷群の中で一軒だけ離れたところ、坂を上った、デコ屋敷資料館のそばにある。主に人型の張子を作っており、歌舞伎や舞踏を題材にした物や雛人形・五月人形の他にも干支の置物や踊りに使うお面も作っている。

 当主の橋本広司さんは、本家から3代目に分家した恵比寿屋の17代目にあたる。広司さんは、日経新聞(2011年9月29日)の文化欄で、半世紀にわたり人形を作り続けてきた心意気を綴っている。
 恵比須屋 橋本広司民芸を訪れた日に、広司さんの母親であるアサさん(94歳)が型に和紙を貼る作業をされているお姿をお見受けした。

 高柴のデコ屋敷には300年前から小正月の行事に「七福神踊り」が残っており、高柴地区の家々を回り、豊作祈願、商売繁盛、家内安全を祈る。現在、保存会には橋本広司さんを会長に約10名の会員が各地で「七福神踊り」を踊っている。

 昭和51年(
1976)のお年玉切手に選ばれた三春の「たつぐるま」は、先代の広吉さんの作品がモデルとなっている。

本家 恵比須屋
 現在の当主は橋本恵市さん。縁起物として人々の幸せを願い、人々の喜びを励みとして、主に張子面・ダルマ・十二支・板付七福神・魔除けの天狗・カラス天狗面・ひょっとこ・おかめ面・七福神面・十二支の張子玩具、など、すべて昔ながらの手作りで制作している。

 以前に購入し、制作者がわからないので、「龍の謂れとかたち」にもアップしていなかった張り子の龍のを今回持参した。本家 恵比須屋で、私が持参した張り子をお見せしたら、奥さんが全く同じ張り子を手に持って見せてくださった。そして、この張り子の龍は十二支がすべてそろっている中の辰であることが分かった。

彦治民芸
 彦治民芸は、築400年の古い茅葺屋根の民家にお店(工房)を構えている。デコ屋敷で唯一、三春駒を木彫りから絵付けまで一貫して制作している。また、張子の十二支・お面・だるまなどを制作、販売している。現在の当主は10代目の橋本高宜(たかよし)さん。

 江戸時代三春藩は貧しい藩だったが、たくさんいた野生の馬を改良して藩の産業とし生産したのが「三春駒」。郷土玩具としての三春駒の本当の名前は「高柴木馬(きんま)」という。

 三春駒の製法は、仕上がりの寸法に木を切る、馬のかたちに粗く削る、かんなやのみで馬に仕上げる、彩色して、麻を黒く染めた毛を植えて完成、の手順を経るが、1本のほおのきの角材から2頭の三春駒を制作するプロセスに特徴がある。

 日本三大駒の一つである三春駒の黒駒は、子宝・安産・子育てのお守りとして作られ、白駒は老後安泰・長寿のお守りとして作られている。

 彦治民芸の9代目当主である橋本彦治さん作の黒い三春駒が昭和29年(
1954)に郷土玩具として最初の十二支の年賀切手のモデルに採用された。息子である現当主の橋本高宜さんが作った「腰高とら」が平成10年(1998)の寅年の年賀切手に採用され、親子二代で年賀切手になった。

本家 大黒屋
 本家 大黒屋は、約300年の歴史があり、最初は土人形から始まり、その後、張子人形になったといわれている。本家 大黒屋の現在の当主は21代目の橋本彰一さん。

 江戸期の元禄時代からの伝統的手法を維持しつつ、新しい感性によってデザイン・制作を手がけ、三春張子・お面・十二支・ダルマ・三春人形など制作しながら、張り子の可能性を追究している。

 橋本彰一さんは伝統を守るというより、伝統を作っていく、代々受け継いできたものを大切に継いで、それを糧にして新しいものへチャレンジしている。

 
2011年の6月、中田英寿氏から、伝統文化の継承と発展を促すことを目的に「REVALUE NIPPON PROJECT」参加への呼びかけがあった。その年は「和紙」がテーマであり、異業種の3人(チームリーダーにファッションデザイナーのDJのNIGOさん、インテリアデザイナーの片山正通さん)でチームを組み、コラボレーションすることで、新しい伝統工芸の技を生かし、毛並みも和紙で「原寸大の白クマ」を作ったことがある。

エピローグ
 三春張り子は「歌舞伎を好きな三春の殿様が、人形師を江戸に連れて行き作りかたを学ばせた、江戸の人形師を連れてきて人形作りが始まった」との説を、私は予備知識として持っていた。
 「今から三百数十年前京都の伏見人形が東北地方に流れ、やがて三春地方にも伝わり、当時貧しかった高柴村の人々がその人形を見て副業として作り始めた」と伝えられている。これは、彦治民芸の橋本高宜さんがデコ屋敷のことについて説明をしてくださった時の説。

 この地でつくられる張り子は、昭和になってから三春張り子と呼ばれるようになって、この名前で良く知られているが、実は三春でなく高柴でつくられていることに自負があるように感じられた。

 デコ屋敷の4件の工房(お店)では、たつぐるま(三春の辰車)や張り子の龍にたくさん出会うことが出来た。これらについては、「龍の謂れとかたち(時系列のTOP・カテゴリーNO:081)」にデコ屋敷シリーズとして紹介しているのでご覧いただきたい。

龍の謂れとかたち
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