伊万里の「古九谷様式」と九谷焼
【メルマガIDN編集後記 第321号 150901】

 戸栗美術館の「古九谷展 2015年7月4日~9月23日」と東京ステーションギャラリーの「交流する焼物 九谷焼の系譜と展開 2015年8月1日~9月6日」がほぼ同時期に開催されており、見に行った。
 これまで伊万里については何回も展覧会を見に行って、伊万里の系譜とそれぞれの時代の特徴について理解しているつもりであったが、九谷焼については、「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展(2005年 松屋銀座)を見たがなじみが少なかった。以前から気になっていた、伊万里の「古九谷様式」と九谷焼の「古九谷」との関わりについて正確に知りたい、また、九谷焼の全貌を知りたい、これが今回二つの展覧会を見たいと思った動機である。
 伊万里の「古九谷様式」と九谷焼の「古九谷」の関わり(伊万里古九谷論争)については、論争の要点については理解できたが、私なりの結論を持つに至っていない。しかし、九谷焼の系譜については、ステーションギャラリーでわかりやすく展示してあり、会場のパネルでの説明も親切で、良く理解出来た。


東博の「華麗なる伊万里、雅の京焼」の図集 2005年


色絵蝶牡丹図大鉢(古九谷様式 五彩手) 口径40.5cm
【東博「華麗なる伊万里、雅の京焼」の図集より


戸栗美術館の「古九谷展」のチラシ
写真:色絵瓜文皿(古九谷様式 青手) 口径44.5cm



東京ステーションギャラリー エントランス


九谷庄三 龍花卉文農耕図鑑(部分)
「交流する焼物 九谷焼の系譜と展開」のチラシより

伊万里の系譜
 10年も前になるが、伊万里については、編集後記の第86号から89号に詳しく書いている。
 東京国立博物館の「華麗なる伊万里、雅の京焼 
2005年」の図集では、初期伊万里・古九谷様式・柿右衛門様式・金襴手・鍋島の5つに明快に区分して解説されていた。今回見た戸栗美術館の展示でも、同じ区分による系譜が表示されていた。
 戸栗美術館での説明パネルをもとに要約してみよう。
・初期伊万里:
1610年から1640年に色絵が誕生するまでに製作された染付を中心とする磁器を総称する。製磁技術を朝鮮に、装飾面では中国磁器や絵画を手本とした。

・古九谷様式:17世紀中ごろ(
1640年)に始まった色絵磁器の初期のものを古九谷様式と総称する。当時の中国景徳鎮の製品の影響を受けたほか、大胆なデザインの作風、濃厚な絵付けとと高度な技術を見せるようになった。古九谷様式には「五彩手」、「青手」、「祥瑞手」がある。

・柿右衛門洋式:17世紀後半には、伊万里の色絵磁器の主流は柿右衛門様式に移行する。薄く精巧な造り、濁手と呼ばれる白の素地、左右非対称の構図、赤を基調とした色彩の文様を特徴とする。ヨーロッパへ大量に輸出され、ヨーロッパの王侯貴族に広く珍重された。

・古伊万里金襴手様式:17世紀末には、上方を中心に絢爛豪華な元禄文化が花開き、裕福な町人に金襴手様式が喜ばれた。濃い発色の染付に赤地や緑・黄・紫・黒に加え、金の上絵を重ねた華やかな装飾を特徴とする。

・鍋島焼:17世紀後半頃から佐賀鍋島藩の御用窯で主に将軍や幕府高官への献上・贈答用のために厳しい管理体制のもとに作られた。染付で輪郭線を描いた上に、重ねる上絵の具は赤・黄・緑の3色に限られていた。

九谷焼の系譜
 本年は、九谷の地に窯が開かれてから360年目の年にあたる。東京ステーションギャラリーでは、本展を開催するにあたって、「《交流》という言葉をキイ・ワードに、江戸初期の古九谷から、江戸後期の再興九谷、明治期の輸出陶磁、近代九谷の諸相、そして現代の作家まで、生活の中に息づき、時代の中で豊かな表現を創造してきた九谷焼の、多彩で魅力的な作品世界をご紹介します」と言っている。

・古九谷:紺青・緑・黄・紫・赤の「五彩手」の華やかさ、赤を除く四彩で器を塗り埋めた「青手」の深みのある味わいが、古九谷の大きな魅力である。古九谷の開窯が明暦元年(1655)であることは定説となっているが、数十年で廃窯となっている。伝世品中に有田製品が混入していることに起因する、産地は九谷か有田かという論争が続いている。

・再興九谷 吉田屋窯:江戸後期になって、古九谷を再興しようという機運が高まり、この中心となったのが、豊田伝右衛門が築いた吉田屋窯。五彩や青手の美しい色彩を甦らせ、さまざまな意匠を取り入れた名品が数多く生み出された。

 再興九谷の陶工として活躍した粟生屋源右衛門は、明るく透明感のある色彩と、ユニークな造形によって異彩を放っている。

・明治期の輸出用陶磁:開国によって九谷でも、伝統の技術を生かし、彩色金襴の華やかで大きな壺や、細字の超絶技巧を用いた輸出用の陶磁が作られた。彩色金襴の技術の礎を築いた九谷庄三の作品も紹介されている。

・近代の九谷焼を制作した名匠たち:大正から昭和にかけて、多くの陶工たちが九谷の地を訪れ、制作を試みている。波山、憲吉、魯山人などは九谷焼のさまざまな技術を学び、それを自分たちの制作に生かしただけでなく、九谷焼の陶工たちにも大きな影響を与えた。

 明治~昭和前期にかけて活躍した初代徳田八十吉は、古九谷や吉田屋の作品の再現のために、五彩の釉薬の研究と絵付けの取り組みに生涯を賭けた。昭和28年(
1953)に文化財保護法により国の無形文化財に認定された。

・現代の九谷焼:古九谷以来の伝統の色彩を純化し、抽象的で洗練された調和を作り上げた、現代の九谷焼を代表する存在として、三代徳田八十吉をとりあげている。

伊万里の「古九谷様式」と九谷焼の「古九谷」の論争
 
1640年代頃、伊万里では、染付に続いて色絵磁器の焼造にも成功する。また、古九谷の開窯が明暦元年(1655年)であることは定説とされるが、この九谷の窯は数十年で廃窯してしまう。

 19世紀に入ると加賀に複数の窯が築かれ、吉田屋窯では、色絵磁器を再興した。再興された「九谷焼」に対して、17世紀の手本とした色絵磁器は「古九谷」という名でよばれるようになった。

 昭和20年代になって、「古九谷」と呼ばれる磁器が有田でつくられた伊万里の初期の色絵磁器ではないかという説が登場した。その後、双方の古窯の発掘跡から見つけられた色絵磁器の破片の調査結果を基に、古九谷は伊万里(有田)でつくられたものであり、1655年に伊万里の技術で九谷の磁器窯が開かれた、という有力な説がる。

 「古九谷」は、有田産か加賀産かをめぐって激しい論争が起こり今日に至っている。ここに詳細を記すことは避けるが、「素地移入説(有田産の素地に加賀で色絵付け)」、「同時多産地説」などが議論されている。

エピローグ
 九谷焼のルーツされる「古九谷」が伊万里(有田)だということは、九谷の地元意識としては受け入れ難いであろう。伊万里古九谷論争について調べているときに、平成23年7月23日の衆議院文教科学委員会で、古九谷の産地のことが議論された記録を見つけた。「古九谷」の産地について、近年の調査研究では反論資料も出てきているのに、東京国立博物館を初めとする独立行政法人の国立博物館で、古九谷を、「伊万里古九谷様式」もしくは「伊万里焼」として展示しているのは問題であろう、と議論されている。

 今回の二つの展覧会において、東京ステーションギャラリーでは、古九谷様式と古九谷の関わりについて「交流」という視点でとらえており、戸栗美術館においても、論争については意識しながら、古九谷様式の色絵磁器の持つ魅力を見てほしいと期待している。

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