松戸神社の神幸祭の四神
【メルマガIDN編集後記 第325号 151101】

 かれこれ7年も前のことになるが、浅草の仲見世通りの三美堂で龍の絵が描かれている色紙見つけて買い求めた。この色紙は、仏画色紙《東方神青龍》という。色紙に付属していた栞に、「四神のひとつとして東方と春を守護する霊獣です。四神を配した地は風水では最良の地とされています。邪気を遮断し、福禄・無病・長寿を呼び込むとされています。」と書かれていた。風水や縁起をあまり気にする方ではないが、《四神》とは何だろうという興味から、雑学の虫が蠢きだし、以来注意を払っている。


四神が龍潜橋を渡って出発する


青龍と朱雀


白虎と玄武

 
手水舎の柱に取り付けられた四神の彫刻  青龍と白虎


松戸神社拝殿
前面の両側に
献水桶がある


献水桶の四神のレリーフ 青龍


献水桶の四神のレリーフ 朱雀

 四神については、横浜中華街の10基の《牌楼(パイロウ・門)》のうち、風水思想に基づいて建てられている4基の門、《四神十二支鏡》や《方格規矩四神鏡》、平安神宮の手水所の蒼龍と白虎などをホームページ《龍の謂れとかたち》で紹介してきた。

 松戸神社の四神については、6年前に神幸祭が催された後の新聞記事で知った。以来、気にかけていたが、今年は神幸祭が行なわれることを知り、松戸神社について調べていたら、手水舎の柱の木鼻に四神の彫刻があることを知った。
 神幸祭のロケハンもかねて松戸神社へ行った時に、拝殿の前の両側にある献水桶の周囲に四神のレリーフが配されているのを見つけた。

四神
 四神の信仰は古代中国で誕生し、日本へ伝えられた。東は青龍、南は朱雀(鳥)、西は白虎、北は玄武(亀と蛇)という神獣がそれぞれ鎮護する。四神は方位の他、時・季節・色・地勢などを司る。

   青龍は東方・朝・春・青・流水
   朱雀は南方・昼・夏・赤・湖沼
   白虎は西方・暮・秋・白・大道
   玄武は北方・夜・冬・黒・丘陵

 四神が司る方位に四神を配置することで、四神に守られ陰陽のバランスが整った空間となり、凶相を吉相にかえ、気が活性化し、運気の高い気が流れ、財運や発展などの開運パワーをもたらし、幸せに暮らせる理想の環境とされる《四神相応》を作り出す事が出来る。

松戸神社
 松戸神社は
1626年(寛永3)の創建、松戸市の総鎮守とされている。主祭神は日本武尊。旧社格は村社である。
 
1609年(慶長14)、水戸城に水戸徳川家が封ぜられると、水戸街道が整備され、松戸宿が宿場町として賑わった。松戸神社は水戸徳川家より篤い崇拝を受け、水戸徳川家より多くの品々が奉納されたが、1739年(元文4)の松戸宿の大火にて社殿とともに焼失した。
 
1882年(明治15)、社号を『松戸神社』へと改称して有栖川宮幟仁親王より社号の書を授かった。

松戸神社の神幸祭と四神
 「昔の松戸の祭は四里四方から人が集まった、そりゃすごい祭だったよ」と言われるように、江戸時代に幕府の直轄地で舟運文化が栄えた松戸宿でも、この四神を取り上げた祭りを行っていた。しかし、明治時代になり神幸祭は途絶えて、四神も渡御することがなかった。

 1989年(昭和64)に復活した祭礼の後片づけの時に、塗りのはげ落ちた、ところどころ損傷した奇妙な形をした動物四体が神社神輿倉の片隅より発見された。平成最初の祭に、伝説の四神が戦後生まれの松戸町衆の前にはじめて姿を現した。幻の四神は、神社総代の総意の下、修復のため日光に移され、1年かけて修復された。

 1990年(平成2)10月14日が、60年ぶりの《神幸祭》復活の日。午前11時、神社提灯を先頭に参加人員は600名を越え、300m以上に及んだ大行列は松戸神社を出発した。以来、今年は四神の5回目の渡御となり、氏子たちは束の間、往時の松戸宿に思いをはせる。

 四神が出るのは祭りが日曜日と重なる神幸祭の時のみであり、次に四神がお目見えするのは、6年後の
2021年10月18日を待たねばならない。

 松戸っ子は、日本の祭の中では眠ったままになっている全国の四神がよみがえり、松戸がその先駆けになることを夢見ている。

<行列の構成>
 神幸祭の祭りの行列は松戸神社を中心に松戸駅周辺を練り歩く。神社提灯を先頭に龍潜橋を渡って出発する。鼻高面、大榊のあとに四神、獅子屋台や大神輿が続き、最後に五色旗など30の出し物で構成され、行列の最後に町内神輿も繰り出して祭りを盛り上げる。

手水舎の柱に取り付けられた木鼻の四神の彫刻
 松戸神社は四神ゆかりの神社、四神が登場するのは、神幸祭りだけではない。普通は見逃すかもしれないが、手水舎の4本の柱の木鼻として四神の彫刻が配されている。それぞれの彫刻は、柱の二面を囲むように取り付けられており、青龍・白虎・朱雀・玄武(ここでは亀)のかたちを明確に見て取れる。

献水桶の四神のレリーフ
 拝殿の前の両側にある献水桶の周囲に八つのレリーフが配されているが、その中の四つが四神である。右側にある献水桶のレリーフは頭が左を向いており、左側にある献水桶のレリーフは頭が右を向いて、左右が対になっている。玄武(亀)の首は両方とも見返りになっている。

エピローグ
 横浜中華街の10基の《牌楼(パイロウ・門)》のうち4基の門は、一日の移り変わりで、「東方の霊気は青龍神が見張り、陽気が南方に入ると朱雀神に引き継ぎ、西方に移ると白虎神が受け、陰気が満ちる夜になると北方を玄武神が守護する」と言われる。

 桓武天皇は、794年(延暦13)、長岡京から平安京へと都を遷したが、遷都にあたって、中国の古典に詳しい学者を集めて四神相応の最適な地を探させた。この地が四神相応の「平安楽土」とみなされたことが、平安遷都の理由のひとつだった。東の青龍が賀茂川、南の朱雀は(干拓されて今は無き)巨掠池、西の白虎は山陽道(もしくは山陰道)、北の玄武は舟岡山とされ、四神相応の都として遷都された。

 相撲の土俵では、青房・赤房・白房・黒房があるのは、四神が土俵を守護していることになることを意味している。

 四神について語る時に、高松塚古墳やキトラ古墳四神について触れるべきであるが、文献、写真、映像、ネットで得た知識しか持ち合わせていないのでここに記すことは控えることにする。

四神の画像は下記でご覧ください。
ホームページ《龍の謂れとかたち》
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