先日、NHKのBSでジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』が放映され、久しぶりに見た。この映画は、黒澤 明監督の『七人の侍』をリメークしたものである。日本の戦国時代の農村を舞台にした『七人の侍』を、『荒野の七人』では西部開拓時代のメキシコの寒村を舞台にし、西部劇としての要素を取り入れ、ジョン・スタージェスが面白い映画に仕上げている。「侍やガンマン)を雇う農民」をストーリーの根幹に据えたところに両者の共通基盤がある。
ここでは、両者の脚本の違いなどについて私個人の意見を述べてみたいが、映画好きのマニアックなテーマであり、いわゆる「ネタばれ」になることをお断りしておく。
映画『七人の侍』は、1954年に封切られた映画であり、50年代の黒沢作品を制作順に示すと、醜聞‐羅生門-白痴-生きる-七人の侍-生きものの記録-蜘蛛巣城‐どん底‐隠し砦の三悪人、の9本。 60年代の黒沢映画は、悪い奴ほどよく眠る-用心棒-椿三十郎-天国と地獄‐赤ひげ、など娯楽性に富んだものに変化している。 黒澤 明はこれまでの時代劇を根底から覆すリアルな作品を撮りたいと考え、橋本 忍に脚本を依頼した。橋本 忍が書いた下級武士の平凡な一日の物語『侍の一日』を取りやめ、次に、剣豪伝をオムニバスで描く作品を考えたが、これも断念。 戦国時代の浪人は武者修行の折りにどうやって食べていけるのかを調べたことをうけて、「武士を雇う農民」にスポットを当てることにした。1952年12月、小国英雄を加えた3人は,脚本の共同執筆のために熱海の旅館に籠った。 脚本作りの進め方は、橋本 忍と黒澤 明が中心になって案を練り、小国英雄が各脚本の矛盾点などを指摘するやり方で進められたという。『七人の侍』の誕生の逸話は、ずっと以前に、黒澤 明のテレビでのインタビュー番組や橋本 忍が若者と対話するイベントで語っていたことの記憶による。 『七人の侍』と、『荒野の七人』のストーリー 日本の戦国時代の農村、収穫時期になると野武士が略奪に村に来る。『七人の侍』では、村人は怖気づき反対する者もあるが、侍を雇って盗賊と戦うことを選択し、選ばれた村民が町に出て侍を探す。 『七人の侍』の前半では、後にリーダーとなる島田勘兵衛(志村 喬)との出会いと「侍集め」の逸話が面白く描かれる。黒澤 明は、菊千代と馬の場面を気に入っていたようだ。 1960年に製作された『荒野の七人』では、西部開拓時代のメキシコの寒村に毎年やってくる盗賊に対抗するために、ガンマンを探す話に置き換えてある。「ガンマン集め」ではナイフの名人ブリット(ジェームズ・コバーン)のシーンなどが面白く描かれている。 七人のガンマンが村にやってきて、彼等が村民に受け入れられる過程を描き、農民の訓練と戦闘の準備をする。ここは、扱う武器に違いがあるが、基本的には『七人の侍』と同じである。 収穫の時期になり盗賊の物見が現れる。『七人の侍』では物見を捕らえるが、『荒野の七人』では3人の全員を殺してしまう。 野武士の本拠のありかを聞き出した侍たちは、本拠へ奇襲し焼き討ちをかける。野武士にさらわれた妻を火の中に追いかけようとした村人を取り押さえようとした平八が野武士の銃弾に倒れる。 『荒野の七人』でも盗賊を奇襲するが、オリジナルに対して「ひとひねり」してある。 野武士が来襲、戦いの幕が切って落とされる。種子島を分捕ってきた久蔵、菊千代の抜け駆け、その隙に襲来した野武士によって多くの村人が死に、侍の五郎兵衛(稲葉義男)も死ぬ。 決戦前夜の勝四郎(チコ)と志乃(ペトラ)の「カラミ」が彩りを添え、いよいよ豪雨の中の泥まみれの決戦が繰り広げられる。久蔵が小屋に潜んだ野武士の頭目に撃たれ、続いて菊千代も撃たれるが、頭目を相打ちで倒し、野武士は全滅する。 『荒野の七人』でも、盗賊を奇襲するが、盗賊の集結場所はもぬけの殻、村へ戻ってみると、戦闘に反対の村人の手引きにより、村は盗賊に占拠されている。七人は万事休す。しかし盗賊の首領は、一旦銃を取り上げるが、七人を解放し、村を出たところで武器を返す。この時点での七人の思いはそれぞれであるが、結局全員が村へ戻り逆襲の戦闘を繰り広げ、盗賊の全員をたおす。しかし、生き残ったガンマンは三人。 『七人の侍』では、村人が喜びに満ちた田植えの時期が来て、生き残った三人の侍が村を去る。志乃は勝四郎を忘れようと田に入る。勘兵衛は、「勝ったのは百姓たちであり自分たちではない」とつぶやく。両者の最後のシーンは、ほぼ同じであるが、『荒野の七人』では、勝四郎に相当するチコ(ガンマンを装っているが出自は貧しい農民)はガンベルトをはずして村に残り、ペトラとの幸せを暗示する。 荒野の七人の大詰めのシナリオで、「ひとひねり」したところが、私にはしっくりとしない。極悪非道の盗賊の首領は、罠にかけて捉えた七人をなぜ殺さなかったのか?偵察に送った部下を殺されて怒り心頭の状態にあったはずなのに。村人に対する自分のメンツのために、一旦武器を取り上げるが、村を出たところで返してやる、というようなセリフがあるが、首領の「武士の情け?」であろうか。このところが、私が理解できないところであり、橋本 忍と黒澤 明が、このようなシナリオを考えたら、小国英雄がダメを出したのでは、といらぬ想像をしてしまう。 七人のキャラクター 七人のガンマンについては、『七人の侍』のオリジナルが踏襲されているが、多少違っている。リーダーの島田勘兵衛(志村 喬)とクリス(ユル・ブリンナー)の役回りは同じ。七人のサブリーダー格ヴィン(スティーブ・マックイーン)はオリジナルと対応していないが、五郎兵衛(稲葉義男)と七郎次(加東大介)の役に近い。ナイフの名人ブリット(ジェームズ・コバーン)は久蔵(宮口精二)の役に相当、村の子供達に慕われるオライリー(チャールズ・ブロンソン)は平八(千秋実)に。腕は確かながら儲け話に目がないハリー(ブラッド・デクスター)と保安官に追われ、自分の倒した敵の影に怯えるリー(ロバート・ボーン)は『荒野の七人』のオリジナルである。 最も違っているチコ(ホルスト・ブーツホルツ)は、農民上がりの菊千代(三船敏郎)と戦闘経験のない若い侍の勝四郎(木村功)を合わせた役どころとなっている。『荒野の七人』では、盗賊の首領(イーライ・ウォラック)が個性を発揮している。 『七人の侍』では、当時の黒澤一家が出そろっており、『荒野の七人』では贅沢で豪華な配役になっている。この映画の後、マックイーン、ブロンソン、コバーン、ボーン、ブーツホルツなど、その後の有名な映画の主役のできる大スターたちがそろっている。 エピローグ これは勝手な私見であるが、「ジョン・フォードと黒澤 明」、「ジョン・スタージェスと松田 定次」の映画づくりに共通性を感じる。ジョン・フォードと黒澤 明は社会派から、娯楽性を持たせたダイナミックなアクションに変化して行ったこと、ジョン・フォードとジョン・ウエインの関係、黒澤 明と三船 敏郎の関係に類似点を見る。ジョン・スタージェスと松田 定次については、西部劇と時代劇での娯楽に徹した面白い映画作りに傑出しているところがあると思う。 ジョン・スタージェスは、『OK牧場の決闘』などの西部劇の名監督として有名であるが、彼にとって異色作ともいえる『老人と海』という名作も忘れがたい。 編集後記集へ |