東海七福神めぐりを振り返る
【メルマガIDN編集後記 第330号 160115】

 NPO自立化支援ネットワーク(IDN)の年初の恒例の七福神めぐりに参加した。2016年は、旧東海道を歩く「東海七福神めぐり」。参加者は30名が、京急大森海岸駅を午後2時過ぎに出発し、4時半ころまで七福神を巡った。ルートは、通常の逆で、順番も一部が変則だった。案内のパンフレットによると所用時間の目安は96分となっており、お参りの時間を勘案すると、少しゆっくり目に歩いたことになるだろうか。歩いた歩数は約13,000歩とのこと。
 当日は、ひたすら歩いて、お参りをするので精いっぱいで、それぞれの寺社について知ることはおろそかだったので、振り返ってみたい。


磐井神社(弁財天)


天祖諏訪神社(福禄寿)


品川寺(毘沙門天)


荏原神社(恵比須)


品川神社(大黒天)


養願寺(布袋)


一心寺(寿老人)

磐井神社(弁財天) 14:15頃
 磐井神社の起源は、敏達天皇(在位572-585)の2年に創建と伝えられる。『日本三代実録』」によれば、貞観元年(859)に武蔵国従五位磐井神社官社に列し、武州八幡社の惣社に定められた、とされる。また『延喜式神名帳』に記載されている古社であり、由緒書によれば、徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。
 幾度かの戦火をくぐってきたが、『江戸名所図絵』などには、「鈴森八幡宮」の名で記録されている。

天祖諏訪神社(福禄寿) 14:50頃
 浜川町と元芝の鎮守の氏神様として仰ぎ親しまれる天祖・諏訪神社は、古くは神明宮、諏訪社と称し、かつては両社とも東京湾に面し、立会川を挟んで並び祀られてた。
 天祖神社の創建は、建久年間の大井郷之図や来福寺の記録から西暦1100年から1190年頃に遡り、諏訪神社は松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、江戸時代初期の寛永8年(1631年)以前の創建とされる。両社は昭和40年に合祀され天祖・諏訪神社と称されるようになった。同時に南大井二丁目にある浜川神社から東海七福神の福禄寿を移した。

品川寺(毘沙門天) 15:30頃
 承応元年(1652)、権大僧都引尊法印の中興で、真言宗海照山普門院品川寺と号し、本尊である水月観世音菩薩は大田道灌公の念持仏と伝えられている。
 寺宝の大梵鐘は、パリ万国博に出品されたあと行方不明 になり、昭和5年再び寺に迎えられて「鐘の寺」と呼ばれている。安置されている毘沙門天は御丈三尺余、足利期のものと思惟せられ高野山伝来の由緒深き御尊像として信仰を集めている。
 毘沙門天は多聞天ともいい、東方を守る持国天、西方の広目天、南方の増長天とともに四天王の一尊として北方を守る武神である。

荏原神社(恵比須) 15:55頃
 荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709)に創建。往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していたが、明治8年に荏原神社と改称。旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した社号になった。
 奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龍神(龍神)を勧請し、龍神を祀る元品川宿の総鎮守。源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至る。東京遷都の際には、明治天皇の内侍所となった。

品川神社(大黒天) 16:20頃
 文治3年(118)、源頼朝が安房国の洲崎明神から天比理乃咩命を勧請して当地に祀り、海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とする。鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に、太田道灌公が、「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれ祀った

 慶長5年(1600)、徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願、以後徳川将軍家の庇護を受けた。
 明治時代には明治天皇が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、東京十社「准勅祭神社」と定め、勅使が参拝し祈願した。
 先の大戦では戦火を免れたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)に現在の社殿が再建された。
 鳥居をくぐってを登って中腹あたりから、富士塚に至る急な階段を登る。「品川富士」は、都内最大級で高さ約15Mといわれるパワースポット。ご利益があると聞いていたので、山頂より拝殿に向かってお参りをした。

養願寺(布袋) 16:30頃
 正安元年の創建と伝えられ、天台宗明鏡山善光院養願寺と号し、御本尊である虚空蔵菩薩を安置する。福徳智恵の御利益を授かる丑寅年生れの守本尊として信仰を集め、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれている。本堂内陣に、鎌倉時代制作の善光寺式阿弥陀如来三尊、江戸時代制作の不動三尊像、布袋尊が安置されている。

一心寺(寿老人) 16:40頃
 真言宗豊盛山延命院一心寺と称し、中僧正引道師に依り安政2年に、成田山分身の不動明王が本尊として安置され、延命・商売の守りとして伝えられている。本堂内陣には両大師,中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲作観音像、寿老人等が祀られている。

エピローグ
 龍楽者は、七福神めぐりでもつい龍がいないか探してしまう。今回は、荏原神社(恵比須)と品川神社(大黒天)で龍に出会った。
 荏原神社では薄暗い中、向拝に龍の彫刻があるのを見つけた。向拝は二段に分かれており、上段の龍は下方を、下段の龍は上方を見つめている。荏原神社は龍神を祀る神社であることから、向拝に龍がおかれていると推察する。
 品川神社では、入口の鳥居に巻き付いている龍と手水舎のかわいらしい龍に再会した。品川神社の石鳥居には昇龍と降龍が刻まれている。鳥居に刻まれた龍は神域を守護するものであり、昇龍・降龍は、「上求菩薩、下化衆生」という仏教の教義を意味するとされる。
 龍が巻き付いている鳥居は、私が知る限り東京には、品川神社、馬橋稲荷神社、及び宿鳳山高円寺境内の稲荷社の三例がある。三例の石鳥居については、2009年に見に行って写真撮影をして、私のホームページ《龍の謂れとかたち》で紹介しているので興味のある方はご覧いただきたい。【生部 圭助】

品川神社の龍が巻き付いている鳥居はこちらをご覧ください
編集後記集へ