富塚鳥見神社の向拝の龍
【メルマガIDN編集後記 第332号 160215】

 富塚鳥見神社は、千葉県白井市富塚にある。2015年12月に、私が属しているNPOの千葉地区で活動しているYさんが、素晴らしい龍の彫刻がある神社と言って案内してくれた。神社の東面の向拝の上部の中備と向拝柱にある龍の精巧なものである。また、南面、西面、北面の壁面の羽目板には『二十四孝』を題材にした彫刻が嵌められている。富塚鳥見神社は龍楽者にとって興味深いものであるが、『二十四孝』についても知るところとなった。
 
一ノ鳥居と神額(鳥見大明神)


本殿の外観  一間社流造


向拝の仲添えと向拝柱龍の彫刻


仲添えの龍の彫刻


向拝柱の龍の彫刻 右が昇り龍


二十四孝のうち唐夫人(西面)の彫刻

鳥見神社とは

 「鳥見神社」は、「とみ」、「とりみ」と読み、千葉県の白井・印西・印旛沼北岸に集中して建立されている。一説に大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われ、主祭神には物部氏の祖神、「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、御炊屋姫命(登美夜須毘売 トミヤスビメ)、宇摩志麻治命」(饒速日命と御炊屋姫命の子)。『常陸国風土記』に景行天皇が「下総の国の印波の鳥見の丘」より霞の郷を望んだとの古伝あることから、印西地域にある鳥見神社が発祥の地とされる。印西地域にある鳥見神社は、鳥見社、鳥見大明神などともよばれている。

富塚鳥見神社
 富塚鳥見神社は、富塚地区の産土(うぶすな)様ともよばれ、「トリミ」が呼称とのこと。この神社の倭神楽は、千葉県の無形文化財に指定されている。

<一ノ鳥居>
一ノ鳥居には、寛政七年(
1795年)卯歳十一月吉日の銘あり、装飾的な構造の明神型鳥居である。鳥居の最上部が笠木と島木から成る二層構造になっており、笠木の両端が反り上がっている。
 一の鳥居の中央の神額の額束(がくつか)には社名が示されており、《鳥見大明神》と読める。

富塚鳥見神社の本殿
(市指定有形文化財)
 本殿は、一間社流造 (いっけんしゃながれづくり)で東向き、総ケヤキの素木造。屋根はもともと草葺だったが、明治8年に銅板葺きに改修された。
 創建の時期は不明とされているが、
慶安三年(1650年)、享保19年(1734年)、寛政9年(1797年)、文化9年(1812年)、明治8年(1875年)の五枚の棟札が残っており、建造・修築の来歴がはっきりとしている貴重な神社建築である。現在の本殿は文化9年に作られたもの。
・一間社: 正方形の建物で、各面が柱2本で、壁が1面で構成された社殿
・流 造:切妻造(ハの字形の屋根)の前側の屋根が、反りながら長く伸びて庇もかねた造り
・素木造 (しらきづくり):削った白木のまま何も塗っていない材木でつくられたもの

 正面を除く壁三面は全て『二十四孝』を題材とする彫刻で飾られている。
 本殿の大工は地元神々廻(ししば)出身と考えられる笠井杢之直、彫師は竹田重三郎、左甚五郎の系譜の名工とされる。

向拝の龍の彫刻
<中備の龍の彫刻>
左右にある向拝柱の上部を繋いでいる正面の梁を《水引虹梁》といい、水引虹梁の上に中備(なかぞえ)として龍の彫刻が彫られている。

<向拝柱に巻き付いた龍の彫刻>
 向拝の屋根を支える柱《向拝柱》に龍の彫刻が巻き付いており、左が降り龍、右が昇り龍である。ちなみに、偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれている。(上野東照宮の栞より)

壁面の羽目板に二十四孝を題材に彫刻が嵌められている
 『二十四孝』(にじゅうしこう)は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物であり、郭居敬(元代の尤溪人)が編纂した。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目とした。日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。

<南面:楊香(ようこう)>
 父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも2人を食べようとした。楊香は虎が去るように願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」と懸命に願ったところ、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。

<西面:唐夫人(とうふじん)>
 唐夫人(とうふじん)は、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、その他様々なことで仕えた。長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫たちよ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言った。

<北面:郭巨(かくきょ)>
 家は貧しかった郭巨は、母と妻を養っていた。子が3歳になった時、郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。郭巨が地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。・・・」

エピローグ
 
富塚鳥見神社小規模な神社に属すると思われるが、正面の向拝に龍の彫刻を、残りの3面に『二十四孝』にちなんだ彫刻が配されており、神社としての装飾性に優れていると思う。

 『二十四孝』については初めて知ったが、親に孝行と言う思想で貫かれている。「貧しいから、子を埋めて食い扶持を減らして親に食事を与える」、「冬の極寒の時に魚が食べたいと言う母のために衣服を脱ぎ、氷の上に伏していると、氷が少し融けて、出て来た魚を2匹獲って母に与えた」、このような一見あり得ない極端な話も含まれている。【生部 圭助】

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