金沢で出会った龍
【メルマガIDN編集後記 第335号 160401】

 2016年3月下旬に金沢に行く機会があり、所用を終えたのちに金沢の龍を訪ねた。金沢の方に案内してもらったので、事前に予定しなかったものも含めてたくさんの龍に出会うことが出来た。

玄門寺の龍の天井画  一丈六尺の大仏の頭部も見えている


尾山神社の東神門の龍の彫刻


本龍寺本堂の欄間の阿吽の龍の彫刻


東別院の鐘楼 龍の目が白く光っている


前田藩の刻の鐘  西別院の梵鐘として使われていた


旧金沢藩医学館の向拝の龍


町屋塾の正面に飾られた白龍の彫刻【作:松本 勉氏】


金剱宮の杉の神木の枝を龍にみたてる


金沢銘菓 中田屋のきんつば



東山の狐峯山玄門寺の龍の天井画
 浄土宗狐峯山玄門寺は、甲斐の僧、玄門直釣が寛永10年(1633)に創建。万冶3年(1660)に加賀藩士、内藤善斎が三代前田利常公から、現在地五百三歩壱尺弐寸を拝領し移転したという。
 玄門寺は、順生が発願したという一丈六尺の大仏(寄木立像阿弥陀仏)が安置されていることでも有名。

 本尊の天井画の龍図は200年以上前に描かれたものとされ、円山応挙に絵を学んだ仙台藩御用絵師の東東洋(あずまとうよう)によるもので《法眼東洋》と落款もある。
 龍図がほとんど見えなくなっていたので、2009年に墨と水干顔料で描きおこされた。注意深く原型を起こし、元の絵を忠実に再現することに注意をはらったと、修復を担当した仏画制作・修復を業とする《伯舟庵》が記している。

尾山神社の東神門の龍の彫刻
 尾山神社は、前田家二代利長公が卯辰八幡宮を建立し、利家公の神霊を合祀したことに始まる。廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えようと、明治6年に、旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築し、尾山神社と称した。平成10年には正室であるお松の方も合祀された。

 東神門(ひがししんもん)は、もと金沢城二ノ丸にあった桃山風御殿様式の唐門で、金沢城初期の貴重な木造建造物。宝暦9年(1760)の大火で金沢城の大半が焼失したが、東神門は災難を免れた。阿吽形の二頭の龍が水を呼び類焼を免れた、と言い伝えられている。彫刻は一本の釘も使用せず名工の作とされるが、作者は不詳。

たくさんの龍に出会った本龍寺
 真宗大谷派潮聲山本龍寺は、金沢の海の入口である金石を代表する真宗大谷派の寺院。北陸有数の大伽藍である瑞泉寺(真宗大谷派井波別院)にゆかりのある寺院であり、慶長7年に、富山県より現在の地に移住した。本龍寺には銭谷五兵衛、安宅弥吉の墓や芭蕉の句碑などがある。

 本龍寺へは、鐘楼にある龍の彫刻を見るために行ったが、境内で鐘楼を見せてもらっていたら、お寺の奥さまが現れて、3種類の案内を持ってきてくださった。そして、龍を訪ねてここまで来たことをお話したら、本堂の欄間に龍がいますと言って、本堂の鍵を開けて堂内に案内してくださった。正面中央に本龍寺の額を掲げて、その両側に雲水に乗った金色の阿吽の龍の彫刻がおかれている。2体の龍は木枠をはみ出し、円柱にかぶさるように牙をむき、目を輝かせて睨み合っている。
 この彫刻は無銘で記録はないが、作風からして、井波の欄間彫刻だと考えられている。なお、この欄間は平成10年12月に修復されている。
 本龍寺では、目的とした鐘楼の彫刻や本堂の欄間の龍の彫刻のほか、本堂の入口近くにあった、明かり(提灯みたいなもの)の底にある龍の彫刻、境内にある2基の燈籠の基礎に龍のレリーフを見ることが出来た。

東別院と西別院の鐘楼と鐘
 金沢には、東別院と西別院がすぐそばにある。東別院は真宗大谷派の金沢別院、西別院の現地の石塔には、《浄土真宗本願寺派本願寺金沢別院》と記されている。
 10年以上織田軍と戦ってきたが遂に降伏的和睦した石山本願寺の顕如は紀州にしりぞいたが、長男の教如と異母兄弟の准如は対立。秀吉の時代を経て、関ヶ原後の1602年に、徳川家康が教如に本願寺の東側に寺領を寄進し御堂を建立すると、教如側に加わる門徒が数多くあらわれ、やがて多くの門徒が離合集散し、准如側を西本願寺(本願寺派)、教如側を東本願寺(大谷派)と言うようになった。
 金沢の別院は、それぞれを支持する加賀・能登・越中のお寺や門信徒の懇念により現在の本堂が再建され、種々の堂宇が整備された。
 西別院の梵鐘は戦争に供出され、昭和21年に真柄要助氏より梵鐘を寄付してもらった。この梵鐘は江戸時代に前田藩の刻の鐘だった。しかし、ひびが大きくなったので、別院参与会から同型の梵鐘を寄付してもらった。
 西別院の本堂の脇に以前に使われていた梵鐘がおいてあった。この梵鐘の龍頭(鐘を吊るための上部の突起、フック)は名前の通り龍のかたちをしている。

旧金沢藩医学館の向拝の龍
 旧金沢藩医学館は、兼六園の桂坂口を出たところにある、元は加賀藩重臣に数えられた津田家の武家屋敷。後に金沢大学医学部の前身とされる藩の医学校だった建物。もとは金沢城大手門前にあったものが、大正12年(1923)に移築され、現在は兼六園管理事務所として使われている。
 唐破風の車寄せがある入母屋平屋武家書院造の武家屋敷は、一万石以上の高禄武家邸宅の玄関遺構としては県内で唯一の建物とのこと。

町屋塾の正面に飾られた白龍の彫刻
 東山周辺にある町屋塾のオーナーは宇都宮 千佳さん。愛媛県鬼北町生まれ。幼少から立脇紘子バレエ研究所にてバレエに親しみ、金沢大学、東京学芸大学大学院で現代舞踊、運動学を学ぶ。ロンドンでの活動などを経て、2010 年に金沢に町屋塾を開く。
 町屋塾は舞踊や音楽、照明やアートに関わる仲間たちが自分たちの持ち味を生かしながら活動できる場やスローなカフェを目指している。町屋塾の正面に飾られた白龍の彫刻は、高知県の松本 勉さんの作の土佐漆喰彫刻。
 土佐漆喰は台風などの強い雨風に壁が耐えられるよう、発酵させた稲藁に塩焼き消石灰を混ぜたものを厚く塗るのが特徴。
 土佐漆喰彫刻は、漆喰を塗った壁に鏝(こて)で、魔除けや福招きを願い取り付けられる龍や七福神などの「鏝絵」彫刻。

金剱宮の杉の神木の枝を龍にみたてる
 金剱宮(きんけんぐう)は石川県白山市鶴来日詰町にある神社。白山七社のうちの一つで、そのうち白山本宮(白山比咩神社)・三宮・岩本とともに本宮四社の一つにあたる。
 境内の杉の神木の枝を龍にみたてる。杉は樹齢約400年とされ、高さ40メートル超、幹周り5メートル超の巨木で、龍の頭に見立てる枝は高さ約8メートルのところにある。
 社務所にあった、平成21年6月に撮影した写真と比較すると龍の勢いが若干そがれているように見える。

金沢銘菓《中田屋のきんつば》にデザインされた龍
 中田屋は、「きんつばといえば中田屋」といわれ、地元で絶大な人気がある。きんつばは、極上小豆大納言を煮付け、寒天、砂糖を加えて煮あげ、自然の色、つや、甘みを包み込んだあんは、舟とよばれる型に流し込み、ころあいをみてほぼ真四角の形に切って、小さな四角一つ一つに衣をつけ、ていねいに焼き端を整えられた加賀銘菓。中田屋のきんつばの包装や手提げ袋には、龍がデザインされている。

エピローグ
 今回の金沢では、11箇所で出会った龍の数は20を数える。本文の中で紹介できなかったものとしては、瑞泉寺(金沢市白菊町)の本殿の向拝の龍虎と鐘楼に飾られた龍、2つの手水舎(宇多須神社と東別院)がある。
 今回金沢で出会った龍をホームページ《龍の謂れとかたち 金沢で出会った龍 
2016》で紹介したいと考えているが、少々時間がかかりそうである。
【生部 圭助】

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