黒田清輝(くろだ せいき)は、「日本近代洋画の父」と呼ばれ、明治から昭和初期にかけて、日本の西洋画画壇に多大な影響を残した重要人物である。東京国立博物館(東博)の平成館で開催されている、特別展《生誕150年
黒田清輝─日本近代絵画の巨匠(2016年3月23日~5月15日)》 を見に行った。模写・下絵・写生帖・書簡・資料、黒田の師コランやミレーなどの西洋画、日本の近代絵画なども含めて、東博の所蔵品、国内外の27か所の機関、個人コレクションなどの240点が展示されている。東博で初の本展覧会を企画した人たちの思い入れによる展示から、黒田清輝の画業のすべてと近代日本洋画の歴史の一旦を知ることができる。
黒田清輝(1866~1924)は、現在の鹿児島市に生まれ、島津藩士であった父清兼の兄黒田清綱の養嫡子になり上京、麹町平河町の清綱邸で、経済的にも、物質的も、恵まれた環境で幼少時代をすごす。そして17歳の時に、フランス語を学び法律の勉学を目的にフランスに留学する。 第1章 フランスで画家になる 画業修学の時代 パリにいて趣味で絵を描いているうちに、山本芳翠などの勧めもあり20歳の時(1887年 明治20)に法律大学校を退学し、絵画に専念することになる。本展覧会では、転身を決意した前夜、両親に宛てた書簡も展示されている。 画家を志した黒田は、サロン(官展)に入選をかさね、アカデミズムのなかの新進の画家として評価がたかまっていたラファエル・コランに師事した。 最初に古典的な絵画の模写や彫刻の描写という基礎的な素描が課せれ、つぎに裸体の素描、三番目に人体、これもヌードの油彩画、そして最後に歴史画などのコンポジションの研究という段階をふまえて教育された。 1890年(明治23)の5月に、パリの南東60キロほどに位置する小村グレー・シュル・ロワンでマリア・ビヨーという名前のこの村の農家の娘をモデルに《読書》や《婦人図(厨房)》を制作。《読書》はサロンに初入選し、フランス画壇にデビューを果たす。これらは黒田の留学時代の代表作となった。 黒田はパリに戻り、留学の最後の年になった1893(明治26)年に、等身大の裸体画《朝妝》を制作したが、先の大戦で焼失してしまった。 黒田は9年間にわたる留学中に、コランの影響を受け、アカデミックな教育を基礎にした堅実な描写、印象派的な明るい外光表現を学んだ。 第2章 日本洋画の模索 白馬会の時代 1893年(明治26)7月に、10年ぶりに帰朝した黒田は、その年の秋に京都を旅したとき、京都の町や、舞妓など、エキゾチックな魅力を感じ、《舞妓》を描き、《昔語り》の着想を得た。 帰朝後の翌年に黒田は、山本芳翠から譲られた画塾《生巧館》を、同じく帰朝した久米とともに《天真道場》と改め、画塾生を指導することになった。 1895年(明治28)4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に、黒田は審査官をつとめるかたわら、留学の最期の年に描いた《朝妝》を出品した。この裸体画は、風俗を乱すものとして、新聞が非難の記事を掲載し、社会的に注目をあつめた。 当時、黒田たちの外光表現による作品群と、それ以外の画家たちの作品群との表現の違いが、あたかも二分されたように見られ、この現象をジャーナリズムは新旧の対比としてとらえ当時の新聞の批評記事の中心となった。黒田たちを新派、それまでの明治美術会の画家たちを旧派、さらに紫派と脂派、正則派と変則派などと、あたかも流派の対立のように呼称をつけて報じた。 黒田たちの活動は、日本にそれまで知られていなかった外光表現と印象派的な明るい色調の洋画をもたらし、リベラルな精神と思想とともに日本の画壇に大きな影響を与えた。 <白馬会> 翌1896年(明治29)6月に、黒田や久米、そして彼らのもとで学ぶ青年画家たちと《白馬会》を結成。白馬会は、1911年(明治44)に解散するまでに、毎年展覧会を開催し、13回展まで続いた。この白馬会展は、明治後半期の洋画界をリードし、藤島武二、青木繁など多くの才能を開花させた。 黒田は、この年創設された東京美術学校の西洋画科の指導者となり、以後、この白馬会と東京美術学校において、多くの新しい才能を育てた。 第3章 日本洋画のアカデミズム形成 文展・帝展の時代 <構想画> 黒田は、外光表現だけではなく、『平家物語』中の小督の説話をよりどころとした《昔語り》など、アカデミズムとしての「構想画」の制作をこころみて、本格的な西洋絵画の移植につとめた。 大画面の構想画《昔語り》は、住友家からの制作費の援助により、制作されたものであるが、先の大戦で空襲のため焼失している。会場には、《昔語り》の完成作品写真、構図・木炭素描・下絵・油彩による習作・画稿(人体の部分など)がたくさん展示され、「構想画」に対する黒田の意欲をくみとることが出来る。 「構想画」として次に取り組んだ《智・感・情》は、1897年(明治30)の第2回白馬会展に出品され、後に加筆されて、1900年(明治33)のパリで開催された万国博覧会に《湖畔》などとともに出品され、銀賞を獲得。この作品は、人体のポーズによって、抽象的な概念を表現しようとしたものであるが、制作意図を明らかにされず、研究者の関心をひき、さまざまな研究がなされている。 <文展> 1907(明治40)年に第1回文部省美術展覧会(通称文展)が開催された。文部省が文教政策として、美術団体の別なく、作風を問わない美術を奨励するために公募の美術展をひらくことになった。これは、黒田もかねてから主張し、政府にはたらきかけていたことが実現した。 エピローグ 東京美術学校、白馬会、そして文展の審査委員など、教育行政面での活動がみとめられ、1910(明治43)年10月、黒田は帝室技芸員を命じられた、さらに、貴族院議員(1920年)、帝国美術院院長(1922年)などの要職につき、美術行政の面での活動が多くなった。 多忙なこの時期の画家としての黒田は、公開を前提としない小品を発表するにとどまった。しかし、以下の談話からは、画家としての意欲、揺れ動く画家の内面をくみ取ることが出来る。 「私の欲を言へば、一体にもう少し、スケツチの域を脱して、画を云ふものになる様に進みたいと思ふ。まだ殆んどタブロウと云ふものを作る腕がない。(中略)どうしても此のスケツチ時代を脱しなければならん。今の処ではスケツチだから、心持が現はれて居るが、スケツチでない画にも、心持を充分に現し得る程度に進みたい。私自身も、今迄殆どスケツチだけしか拵へて居ない、之から画を拵へたいと思ふ。」 本展覧会を見た後、田中 淳氏の『黒田清輝の生涯と芸術』を読むことにより、黒田清輝の生涯と近代日本洋画の歴史を知ることが出来た。【生部圭助】 編集後記集へ |