夏の記憶~サン・アントニオ~ 毎年、夏になると《パセオ・デル・リオ》と名付けられたリバー・ウォーク(川岸遊歩道)のあるサン・アントニオを思い出す。1986年に、《新社会システム開発調査》グループの一員として、バンクーバー、ダラス、ヒューストン、サン・アントニオ、サンフランシスコを巡った。社会システムの中で、特徴のある街づくりを成功させた《都市づくり》の例としてサン・アントニオを訪れた。30年も前のお話で恐縮だが、懐かしい夏の思い出の断片を紹介したい。
サン・アントニオは、人口は100万人ほどのテキサス州で3番目の都市、金融、工業の中心地であり、食品業のほか航空機、建築材などの工業が発展している。また、市の内外に空軍基地があり、軍事都市としての一面も持つ。 1718年、アラモ砦とアラモ伝道所の複合施設が出来、スペイン人宣教師アントニオ・デ・オリバレス司教が入植、市の名前はこの宣教師の名前および教会の正式名称に因む。 サン・アントニオは、1800年代のゴールドラッシュ時に東海岸からカリフォルニアへ行く人達の宿場町だったそうで、スペイン領だった時代はテキサスの首都だった。 <アラモ砦の攻防> メキシコがスペインから独立した後、テキサスもメキシコから独立運動が高まり、それを制圧するためにメキシコ軍がサン・アントニオに進軍した。その時に砦となったのがアラモの砦(アラモ教会)で、1836年、大激戦でテキサスは敗北はしたものの、その後に独立を勝ち取った。 サン・アントニオは、テキサス独立戦争を主題にした映画《アラモ》の舞台となったところとしても知られている。この映画はジョン・ウエインが自ら監督し主演して、1960年に70ミリフィルムを用いて制作された メキシコまで3時間ほどで行けるサン・アントニオは、メキシコ文化が多く感じられる街である。 《パセオ・デル・リオ》と名付けられたリバー・ウォーク 近くの川より街に水路を引き込んで作ったリバーウォーク(川岸遊歩道)が、《パセオ・デル・リオ》と呼ばれる。大都市の中に誕生したヒューマン・スケールの魅力的な空間は、サン・アントニオが年間1000万人以上が訪れる、全米有数の観光都市として発展した要因ともなっている。 <歴史> サン・アントニオの街づくりの契機となったのは1921年の大規模な洪水で、これは市内に甚大な被害をもたらし、死者50名を出したともいわれる。 都心部を通るサン・アントニオ川は、この洪水を機に、上流にダムをつくり、治水、灌漑の整備を進めることになった。当初はこの水路を暗渠化することが計画された。 議論の結果、暗渠化の代替案として、水路と市街地を生かしたリバー・ウォーク構想が提案され、川沿いに遊歩道を整備するという《パセオ・デル・リオ》に通じる計画案が提案され、1929年に着工。一帯に店舗も作られ、街の新たな中心となった。 その後1938年には、4キロメートルに渡るサン・アントニオ川沿いの遊歩道を整備するという「サンアントニオ美化プロジェクト」が策定されたが、大戦が迫ると市民の関心は薄れ、戦後しばらくは浮浪者の溜まり場となってしまい、ゴーストタウンと化した。 1963年に、市は再開発のマスタープラン《パセル・デル・リオ(川の遊歩道)》を策定し、再生に取り組んだ。「サン・アントニオ国際博覧会」が開催され成功を収めると、全米におけるサン・アントニオへの関心と地位が高まり、大規模コンベンションセンター、レストラン、劇場、ショッピングモールなどが相次いで建設された。 その後も、1981年にはアラモ砦と接続、1988年には《パセオ・デル・リオ》沿いにつくられたリバーセンター(ショッピング・センター)とも接続されるなど、都心の主要施設をネットワーク化している。その結果、《パセオ・デル・リオ》だけでなく、都心部の魅力を向上させることにも大きく寄与している。 <特徴> この歩行者空間は道路より一段下のレベルにあるため、自動車道路と交叉することなく、サン・アントニオの都心部を歩いて移動することを可能とする。 また、川沿いのランドスケープ・デザインがなされているため、樹木や草花が生い茂り、歩行を快適にする。歩道に沿ってレストランやカフェが営業しており、街の賑わいも備えている。さらには、円形劇場などの広場的な施設もあり、川をはさんでパフォーマンスを観るといった、舞台としての街の魅力をも有している。 NBAのサンアントニオ・スパーズがチャンピオンを勝ち取った年に運河を船でパレードすることでも知られている。 デジブックの制作 春にデジブック《川沿いの散歩道》を制作して以来ご沙汰をしていたので、《サン・アントニオの夏~リバーウォーク 1986~》を制作した。写真としては、2Lサイズの紙焼きが14枚しかなく、《パセオ・デル・リオ》の雰囲気を伝えるために、30年前のネガフィルムを引っ張り出して、近くの懇意にしている写真屋さんで数枚を試し焼きしてもらった。 写真屋の主人も努力してくれたが、カラーの退色が激しく、紙焼きは使用するに堪えないことが分かった。今回、紙焼きしたもの中より2枚だけ加えて、写真の枚数と質に不本意なデジブックを完成させることになった。 しかし、写真の枚数が少ないと、少ないなりに全体の構成に努力すること、デジタルになってからの写真の使い方は冗長すぎることなどが、今回デジブックを制作した貴重な教訓となった。 <デジブックの反響> デジブックを公開してすぐに、息子さんがサン・アントニオの大学に行っていた12年程前にサン・アントニオに行った方から、「とても綺麗な処の印象が残っており、見飽きる事のないショットがいっぱいで愉しませてもらいました」、というコメントを頂いた。 エピローグ サン・アントニオの30年前の印象は、《パセオ・デル・リオ(リバーウォーク)》の昼と夜の雰囲気が強烈であるが、Googleで検索した結果の画像を見ると、30年前とイメージはよく似ている。ホテルの中および街中がメキシコ料理のスパイスの匂いで充満していた、このような街の特徴は現地へ行かないと味わうことができない。 写真で紹介している銀製品のカフスボタンとアクセサリーは30年前に買った思い出の品。買ったお店は、リバーセンター(ショッピング・センター)と言われる立派のものではなく、街なかのメキシコの特産品を売っている雑多なお店だった。夏場にはこのカフスボタンを使っており、ストラップ代わりのアクセサリーは私のUSBメモリーのお守りである。 《新社会システム開発調査》の旅程を改めてみて見てみると、ここに宿泊したのは、30年前の4月1日と2日であることが分かった。当地の4月の最高気温は38度(平均最高気温:26.9度)、8月の最高気温は43度にもなる。ずっと長い間、サン・アントニオへは夏に行ったと思い込んでいた。【生部 圭助】 デジブック《サン・アントニオの夏~リバーウォーク 1986~》 編集後記集へ |