科学技術と経済の会(JATES)は、1966年10月20日に設立され、今年50周年を迎えた。当会の設立の趣意書には「将来予想される技術革新がいかなるものであり、またこれらが産業経済にどのような影響をもたらすかを探求し、一つのビジョンを提供し、かつ、その促進を図り、今後における日本経済の躍進と近代化に寄与するとともに、我が国全産業に携わる科学技術者の連絡協調と啓蒙を図り、その綜合効果を高める施策を講じる」と書かれている。
1917年2月14日に創立50周年記念式典が催された。当日は、式典に先立って、「技術経営・イノベーション賞」の表彰式が行われ、今年も5件が表彰された。記念講演として、ノーベル賞の天野 浩教授の「世界を照らすLED」と題した講演があった。 JATESには、1989年から1995年までの間、会社の実務担当の窓口(キーマン)として参加し、各種行事を通して異業種交流を行った。当時のキーマン達がOB会≪TM(テクノマネージメント)研究会≫を結成し、今日まで続いている。年に数回集まり、往時をしのび、今日的話題について議論を重ねている。 JATESで印象に残っているのは、R&D効率化研究会で異業種の各社のR&Dの実態を学んだこと、JATESの海外調査団に2回参加して、ヨーロッパとアメリカの有名企業のR&Dについて知ることができたことである。また、海外の調査では、≪コンサート三昧:昼は仕事、夜はコンサート≫の経験も楽しい思い出である。
(1989年10月29日~11月12日) この年の調査は、ヨーロッパにおいてJATESに近い活動をしているEIRMA(European Industrial Research Management Association)とのミーティングを主とした目的に、ヨーロッパの有力企業を訪れた。 EIRMAでのミーティングの前後に、NESTE(ヘルシンキ)、NOKIA(ヘルシンキ)、TEKES(フィンランド技術開発センター)、ACOST(イギリス科学技術会議 ロンドン)、サセックス大学科学技術政策研究所(ブライトン)、OECD(仏)、EIRMA(仏)、EC(ブラッセル)、マックスブランク工業所有権研究所(ミュンヘン)、チバ・ガイギー社(バーゼル)を訪問した。 ライプツィヒの1989年10月9日の月曜デモをトリガーに、11月9日に、ベルリンの壁が崩壊し(東独閣僚評議会が市民の国外旅行と移住の為の出国を自由化すると発表)、東西ドイツ統一の記念すべき日であるが、ヨーロッパに居ながら、旅行中にほとんどこのニュースを気にした記憶がない。 訪米テクノ・エコノミクス調査団 (1995年10月31日~11月12日) 先のヨーロッパの調査から6年後に米国調査に行った。調査の目的はヨーロッパの時と同じであるが、6年の時の流れと、ヨーロッパとアメリカのR&Dに対する考え方や行動の差についても大変興味深いものがあり、有益だった。 調査団の目的は、①米国産業界における国際競争力の急速な回復とその要因、②米国企業のリストラ・エンジニアリング、③米国企業のマルチメディア戦略、CALSの実態、④米国企業におけるベンチマーキング手法の活用状況、⑤IRI大会に参加による、米国R&Dマネージメントの新潮流を知る、という5つだった。 調査団は、ヨーロッパのEIRMAと同じ趣旨で活動しているIRI(Industrial Research Institute 米国工業研究協会)の秋季大会に参加し、その前後に、下記に示す西海岸と東海岸のトップ企業6社と2つの大学を訪問した。 ヒューレット・パッカード社(サンフランシスコ)、インテル社(サンフランシスコ)、IRI秋季大会(サンディエゴ)、IBM(ニューヨーク)、GE社研究センター(スケネクタディ)、DEC社(ボストン)、M.I.T(ボストン)、デュポン社(フィラデルフィア)、ジョージ・メースン大学(ワシントン)。 コンサート三昧:昼は仕事、夜はコンサート 海外でのコンサートは、昼間に視察や訪問などの仕事をし、皆が食事やお酒を楽しむ夜のフリーな時間に出かけることになる。まだインターネットもない時代なので、夕方到着した街でコンサート情報をいち早くキャッチした上に、初めての街へ夜出かけていくには、かなりのノウハウと勇気も必要だった。 <1989年のヨーロッパ> 1989年にヨーロッパへ出張した時には、14泊のうち5回コンサートに行った。ヘルシンキの国立オペラハウス(旧)で、モーツアルトの≪コシ ファン トッテ≫を、2回目になるロンドンのロイヤル フェスティバルホールでラフマニノフの≪ピアノ協奏曲第3番≫他を聴いた。 2回目のパリではこの時もコンサートがなく、小さな教会を苦労して探して、2つのトランペットと小さなオルガンの演奏会を聴くことができた。 チューリッヒでは、音響がいいので有名なトンハレでプーランクの≪カルメル教会修道女の対話≫という、フランス革命200年記念講演と銘打った珍しい曲を聴き、翌日の夜に、豪華なオペラハウスでプッチーニの≪ラ ボエーム≫を見た。 <1995年のアメリカ> 西海岸ではコンサートの機会に恵まれず、最初のコンサートは、ニューヨークのアリス ターリー ホールでのバーバラ ヘンドリックスのリサイタル。1982年に行ったアベリー フィッシャーホールと3年後に行くことになるカーネギーホールではコンサートの予定がなかった。 世界中で最も聞きたかったボストンシンフォニーホールでは、チケットは売り切れ、幸運にもホールの前で老婦人からチケットを譲ってもらった。演目はハイティンクの指揮でマーラーの≪交響曲第9番≫、その日はリハーサルの夜だったが、全楽章が演奏され、4楽章の冒頭は2回も聴かせてもらって、憧れのホールでの音に聞き惚れた。 最後に訪れたワシントンでは、ケネディーセンター コンサートホールでレナード ストラトキンとナショナル交響楽団のブリテンやベルリオーズを聴いた。 エピローグ この年の調査で印象に残っていることのひとつは、IBMでプレゼンテーションとデモがあった、ユーザー・インターフェース・テクノロジー≪IBM Think Write Discrete≫である。この時のノートを見ると、「3万語の入力可、文の前後により、同発音を的確に文章化する」と記録している。20年以上も前に開発の緒についた技術が今では普通になっている音声入力のことである。 会社人生のなかで最初に海外出張をしたのは1973年、最後は1998年、この25年間に8回欧米に出かけ、延べ18回のコンサートに行ったことになる。JATESの調査に参加した時には、欧米で8回のコンサートに行った。このような機会を与えていただいた会社やJATESに大変感謝している。 2回の海外調査では、記憶に残ることがたくさんあるが、1995年にボストン美術館でゴーギャンの≪我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか≫を見ることができたのもその一つである。 最近の話題と関連することでは、IRI秋季大会が開催されたサンディエゴから、国境を越えてメキシコのティファナに行ったこと。半日ほど雑然とした街を歩いて、メキシコ料理を食べてアメリカに戻った。今日ティファナは、メキシコ国境の壁やアメリカとメキシコの通過点として注目されているが、メキシコのことが若干ではあるがわかる気がする。【生部 圭助】 編集後記集へ |