日本における龍の起源~ヤマタノオロチ~
【メルマガIDN編集後記 第379号 170201】

 最近、龍が話題になった時に、最初に龍が登場したのは何?それは何時?と問われることがある。メルマガIDN第377号では、世界で最初の龍(ドラゴン)として、古代メソポタミのアシュメール神話に登場する「ティアマト」を紹介した。
 では、日本の最初の龍は?と問われて答えを見つけるのは、自称龍楽者の則を超えて「学」の世界に足を踏み込むことになる。しかし、龍楽者にも興味のあることなので、あえて学の世界を垣間見た。以下に記すことは、あくまで龍楽者の「仮説」であることをお許しいただきたい。


龍らしい文様が刻まれている弥生式土器
池上曽根遺跡出土 大阪府立弥生文化博物館所蔵】



方格規矩四神鏡  中国製・後漢時代 1~2世紀
【東京国立博物館所蔵 TJ-645】



ヤマタノオロチ伝説の記紀の比較表  詳細版


八岐大蛇退治 月岡芳年 『日本略史之内』
【笹間良彦著 龍の歴史大辞典より】


紀紀と捜神記の比較表


大宝元(701)年の元旦儀式に立てられた朝賀の幢幡(どうばん 旗)
【平安宮発掘調査報告XIVより】

弥生時代の土器の龍の文様
 大阪府立弥生文化博物館に所蔵されている、池上曽根遺跡より出土した弥生式土器に龍らしい文様が刻まれている。この土器は弥生時代(紀元前10世紀-3世紀)後期のものとされる。
 この龍が、日本最古のものか、大陸からの水稲の文化として伝来したものか、この時代にどのような意味を持つのか、また後世の日本の龍に継承されるものか、私としては納得できるところに至っていない。

古墳から発掘される銅鏡に龍の姿を見る
 古墳時代の鏡は、弥生時代から古墳時代には権威のシンボルとして、墳墓に盛んに副葬された。3~4世紀の古墳には、精巧な舶載鏡(輸入された鏡)やぼう製鏡(国産鏡)が大量に納められており、副葬品の重要な位置を占めている。
 古墳から出土する中国鏡のほとんどは、後漢時代から六朝時代に造られたものであり、この時代に「四神」の思想や龍のかたちを見ることができる。

ヤマタノオロチ神話
 ヤマタノオロチの神話は、『古事記(718年)』と『日本書紀(720年)』に見ることができる。『古事記』と『日本書紀』に描かれる神話は、大きな話の流れが同じであることから、「記紀神話」とも呼ばれている。
 
『古事記』は、天皇の国土の支配や皇位継承の正当性を国内に示す目的で、『日本書紀』は、唐や新羅などの東アジアに通用する正史を編纂する目的で編纂されたというのが通説である。
 ヤマタノオロチの神話においても、記紀の細部を比較すると両者には異なる部分がある。(比較表及び詳細版を参照)
 ヤマタノオロチは、日本のオリジナルのお話か、退治されたのは蛇か龍か、ヤマタノオロチは退治される「悪い龍」であるが、後世の日本の「善い龍」との関係は?など、いくつかの知りたいところがある。

<ヤマタノオロチ神話のあらまし>
 高天原を追放されたスサノオは、出雲国の肥の河の上流の鳥髪の地(船通山)に天降りる。川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるだろうと考え川をさかのぼると、一人の娘を真ん中にして泣いている老夫婦に出会う。老夫婦は国つ神であるアシナヅチとテナヅチ。娘は、クシナダヒメという名。
 スサノオが老夫婦に泣いている理由を尋ねると、老父は「私たちには八人の娘がいた。毎年、山からヤマタノオロチが降りて来て八人の娘が食べられた、今年もヤマタノオロチが来る時期になり、最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまう、それが悲しくて泣いている、と答える。
 話を聞いたスサノオは、老夫婦に、クシナダヒメとの結婚を条件にオロチを退治することを持ちかける。まずクシナダヒメの安全を守るため、彼女を爪形の櫛に変えて自分の髪にさした。
 老夫婦に、家のまわりに垣根を張り巡らせ、その垣根に八つの門を設けること、さらに門ごとに八つの桟敷を作ること、そこに何度も醸造した強い酒を満たした桶を置いておくこと、などの指示を出す。
 待ち構えていると、すさまじい地響きとともにヤマタノオロチが現れ、芳醇な香りが漂う酒を見つけたオロチは八つの桶にそれぞれ頭を突っ込んで酒を飲み始めた。やがてすべての酒を飲み干してしまうと、オロチは酔っぱらって、眠り込んでしまう。
 スサノオが腰に差している剣を抜きヤマタノオロチに切りかかり、首を切り、身体を切り刻む。そして刃がオロチの尾に達したときに剣の歯が欠け、尾を切り開いたときに中から見事な太刀が出てきた。
 スサノオはこの太刀をアマテラスに献上。これが、のちに草薙(くさなぎ)の剣といわれ、皇室の三種の神器の一つとされる。
 スサノオとクシナダヒメは出雲の淸地(須賀)の地に住んだ。

<退治されたのは蛇か龍か>
 記紀ではヤマタノオロチの姿を、一つの胴体に八つの頭と八つの尾をもち、目はホオズキのように真っ赤。しかも身体じゅうに苔が生い茂り、檜や杉が生え、八つの谷と八つの丘にまたがるほど巨大で、腹のあたりはいつも血がにんじでいると、説明している。
 古事記では、十拳剣で切り刻まれるときにはじめて「蛇(クチナワ)」という名前が使われるが、この「蛇」は蛇行して流れる肥の河の自然を象徴している。
 ヤマタノオロチは、《蛇を超える脅威を与えるものとして蛇を進化させ、神話の中で新しいイメージを創り、シンボルとした「龍」である》、というのが自称龍楽者の現時点の仮説である。

<日本のオリジナルのお話か>
 4世紀(記紀の約300年前)に中国の東晋の干宝が著した志怪小説集『捜神記』の中に『ヤマタノオロチ神話』とよく似たお話がある。「学」の世界でも定説とはなっていないようであるが、『ヤマタノオロチ神話』は『捜神記』に大きな影響を受けているとの説がある。
 人身供犠のプロットはおなじであるが、蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけ米の団子(ヤマタノオロチでは酒)を大蛇の住む穴に置き、犠牲の対象と想定された娘(寄)が蛇を噛む犬を連れて大蛇を退治し、娘は越王の后に、父や母や姉も厚遇された、というところが大きく異なっている。(比較表を参照)

エピローグ
 英雄が、強力な怪物と戦って女性を救い出すという神話の定型の一つを「アンドロメダ型神話」と呼んでいる。『ヤマタノオロチ神話』も『捜神記』もその類型に入る。ギリシャ神話が中国に伝わり、それが日本にも伝わったという説も無視できない。
 しかし、『アンドロメダ神話』では、巨悪な怪物(ドラゴン)であり、『捜神記』では長さ七~八丈、大きさは十余抱え、頭は米蔵、目は直径が2尺もある鏡を持った大蛇とされる怪物であるが、『ヤマタノオロチ神話』では「暴れる自然」を象徴しているところに特徴がある。

 ヤマタノオロチは退治される「悪い龍」の典型であり、西洋の「ドラゴン」と同じ悪役である。では、後世の日本における「善い龍」との関係をどのように説明すればいいのだろうか?
 《日本にも暴れる自然という「悪い龍」が居た、しかし日本では、農耕文化において「自然」が重要な位置を占め、自然を克服するのではなく共生することを良しとした》というのが現時点の私の仮説である。そこには、中国から直接、または朝鮮半島を経由して日本に伝わった「善い龍」の影響が大きいと思う。

 続日本紀には、701(大宝元)年に文武天皇を大極殿に迎えて行われた元旦儀式において、東側に日像(太陽)と青龍と朱雀の3本の旗竿を、西側に月像と玄武と白虎の3本を立てたと記されている。これは、中国に源を発する「陰陽五行思想」の影響であり、同時代の、高句麗の江西(カンソ)大墓古墳の影響を受けたとされる高松塚古墳やキトラ古墳の「四神」などにも通じる。
 記紀の編纂とほぼ同じ時期に「四神」のひとつとしての「善い龍(青龍)」が存在していたことが明らかであり、「善い龍」の流れはこの頃にはすでに始まっていたのである。
【生部 圭助】

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