鴨川市郷土資料館で開催された《伊八新発見》展を見に行った。鴨川市が生んだ《波の伊八》の作品の28点が初公開された。この展覧会には、南房総市府中の宝珠院で本堂を飾っていた欄間彫刻《梅に鳳凰》も展示された。関東大震災で本堂が被災した時外されて80年間保存されていたもので、伊八が48歳頃の作品。
伊八の作品には、波のみならず、龍の彫りも巧みで、房総南部を中心に、神奈川、東京、埼玉にまたがり、神社や寺院の向拝や欄間の彫刻などのすぐれた作品を多く残した。これまでにもそのいくつかを見に行った。
今回は、鴨川市郷土資料館でいただいた《鴨川市内初代伊八マップ》をもとに、3つの寺院を訪れた。その中から伊八の龍の彫刻を紹介する。 波の伊八 初代武志伊八郎信由は、宝暦2年(1752)に、安房の国長狭郡下打墨村(現在の千葉県鴨川市西条地区打墨)に生まれ、1824(文政7)年に没した宮彫師。伊八の名前は、初代から五代にわたり、およそ200年後の、昭和29年まで受け継がれた。
展覧会のパンフレットによると、君津市大坂の岩田寺本堂の南北破風に取り付けられている力士像の裏面に記されている墨書名から、これまで『江戸彫工世系図』中の記載内容にしか根拠を見いだせなかった伊八の師匠関係が、実際の資料によって明確に裏付けされることになったと記してある。 これらの内容から、伊八の師匠が上総植野村の嶋村貞亮(市東半平)、その師匠が江戸の嶋村流三代目嶋村唐四郎であったこと、伊八が嶋村姓を用いていたことが初めて確認された。
外房の荒海を象徴するかのような、《波》の浮き彫りが独得の作風とされ、《波の伊八》と称される。職人仲間では「関東に行ったら波を彫るな、彫ったら笑われる」と語られていたという。 伊八の作には、房総南部をホームグランドにして、この地域の人々の求めに応じながら自分自身の裁量で自由に腕を振るったおおらかさがあふれている。 伊八が最も重視した点は、自分の作品をいかに自社の建築空間に結び付けるかという課題だった。伊八の作品には、見る人の視点からの距離や角度に対応した工夫が施されている。彼の作は建築空間に収められて初めて最大限の表現効果を発揮する。 鏡忍寺 鏡忍寺は、日蓮上人《子松原の法難跡》として有名な日蓮宗の寺。文永元年(1264)11月11日の日暮れ時、日蓮上人一行が小松原にさしかかった時に、数百人の伏兵が上人一行を急襲した。かねて日蓮上人に敵意を抱いていた地頭とその手下である。この時に弟子の鏡忍房日暁と上人一行を救った工藤吉隆は死ぬが、一行は難を逃れる。
この法難より17年後の日蓮上人在世中、弘安4年(1281)に、吉隆の子、日隆がこの地に名隆山鏡忍寺(後に鏡忍坊の名に因み小松原山鏡忍寺と改める)を建立し、鏡忍房と吉隆を弔った。
伊八の作品《七福神の彫刻》は平成19年(2007)に新築した祖師堂正面の欄間三面に飾られている。真ん中に《舞う恵比須》、左側に《大黒・毘沙門天・鶴》、右側に《布袋・寿老人・唐子》が彫られており、初代伊八のユーモアとセンスが伝わってくる。祖師堂外面の蛙股20面は、伊八20歳のころの作品である。本堂の欄間には、二代伊八の彫刻《双竜の図》がある。 金乗院 伊八の生家のすぐ近くにある金乗院の大日堂は、平安時代初期に弘法大師ゆかりの大日如来像を安置するために建てられたといわれる。現在の大日堂は昭和7年(1932)一千百年遠忌を記念して再建されたもの。
大日堂正面の欄間には《酒仙の図》が彫られている。7人の酒仙は、この大日堂で200年間も舞えや歌えの宴を開いている。 大日堂の向拝には《向拝の龍》の彫刻が置かれており、初代伊八28歳の時の作。雨上がりの石畳に移った青い空を反射して、白龍が青龍に見えることもあるという。 金乗院の山門には、24歳の初代伊八の作と43歳頃の四代伊八の彫刻が同居している。
大山寺 大山寺は、奈良時代紙亀元年(724年)に東大寺別当だった相模(現在の神奈川県)出身の良弁僧正が開山したと伝えられる。中世以降は天台宗に属し、修験寺として栄えた。明治5年の修験道禁止令によって、真言宗に帰属することになって今日に至る。
建築年代は、棟礼から江戸時代末期の享和2年(1802年)と推定され、翌年9月に伊八が二体の龍を向拝の空間に据えて完成した。不動堂は入母屋造り、銅版葺きで、和様建築様式を忠実に伝えている。 不動堂の向拝には、初代伊八52歳の作品である飛龍と地龍を上下に配されている。波頭から空へ立ち上る水気は雲となり雨を呼ぶ。龍の眼下には長狭平野が広がり、米どころの長狭に恵みの雨を降らせる。二体の龍は200年にわたって東の方角を見据え続けている。 大山不動尊の本尊の不動明王 (県指定有形文化財) は鎌倉時代に相模の大山寺と同木同作で良弁の作という。 大山寺は、成田山新勝寺、神奈川県の大山寺とともに 関東三大不動といわれている。 エピローグ 《向拝》は《こうはい》または《ごはい》と読み、社殿や仏堂の正面階段の上に張り出した庇の部分のこと。本来は階隠(はしかくし)のためにつくられたもので、屋根は本体から葺下ろし縋破風(すがるはふ)をつける。近世の向拝では正面に唐(から)破風をつけ飾るものもある。 向拝は出入口にあたるので、本体より飾る場合が多く、頭貫(かしらぬき)を虹梁(こうりょう)形にし、木鼻(きばな)も彫刻をつけ、頭貫上に蟇股(かえるまた)を置く。
2010年11月に、杉並の堀の内にある妙法寺を訪れた。仁王門の龍を見て、祖師堂の向拝の唐破風の先端に取り付けられている龍の彫刻を見た。 向拝の龍(龍五態、丸彫り)は伊八が20歳の時の作であり、仁王門の龍の彫刻は伊八の師匠の嶋村貞亮(市東半平)の作であるとの情報を以前に調べたネットより得ていた。この度、妙法寺に電話をして確かめたが、向拝の龍は伊八の作とのこと、仁王門の龍については確認が取れなかった。 龍を訪ねるものにとっては、向拝やお堂の入口に置かれている彫刻は自由に見せてもらえるが、本殿の欄間などは、見せてもらえないことが多い。しかし、最近では伊八が有名になり、南房総の伊八をめぐるツアーなども企画されており、伊八を見る機会は増えている。 鴨川市郷土資料館で開催された《伊八新発見》展では、《伊八新発見》展 関連年表が作られた。ここには、伊八が28歳の時(1752)から73歳で没するまでの詳しい紹介がされており、彼の主な作品の制作年代と、置かれている社殿や仏堂も示されている。《鴨川市内初代伊八マップ》とあわせて伊八の龍の彫刻を探訪するのにいい資料をいただいた。【生部圭助】 特集 初代波の伊八 (仮説)北斎の《神奈川沖波裏》には元になっている彫刻があった 編集後記の目次へ 龍と龍水のTOPへ |