先号では、房総半島の中ほどにある行元寺で見たもの、そこで聞いた話をもとに「左甚五郎は架空の人物、実は高松又八郎邦教である」という《仮説》を述べた。今回も、同じく行元寺で得た情報をもとに、葛飾北斎の有名な《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》には元になっている彫刻があった、という《仮説》を書いてみたい。時代は、甚五郎と又八郎のおはなしから100年ほど後のことである。
葛飾北斎
北斎は、
1760年に現在の東京都墨田区生まれ、
1849年に浅草聖天町遍照院境内の仮宅で没した。北斎は90年の生涯の中での70年間に、3万点を超す作品を残したとされている。役者絵、美人図、武者絵、名所絵、相撲絵、絵暦など、多くの画題に挑み、その後、摺物や狂歌絵本の挿絵と肉筆画も手がけた。
1867年のパリ万博の日本館に100枚ぐらいの浮世絵が展示され、その鮮やかな色、装飾性、独特な構図など、西洋の芸術家の関心を呼び、浮世絵のブームを起した。モネ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャンなど、当時の著名な画家は浮世絵に少なからぬ影響を受けた。
ドビュッシーは北斎の《神奈川沖浪裏》からインスピレーションを得て交響詩「海」を作曲したといわれ、近年になってもピエール・ブーレーズがこの曲を指揮したレコードジャケットにも使用されている。
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葛飾北斎の《冨嶽三十六景 神奈川沖波裏》
【絵葉書を複写】 |
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伊八の欄間彫刻《波に宝珠》
【行元寺の資料より 写真撮影は許可されていない】 |
冨嶽三十六景 神奈川沖波裏
1814年に民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた「北斎漫画」の初編を発刊した。《冨嶽三十六景》は、表富士と称される本編36図と裏富士と称される続編10図からなる富士山を主題としたシリーズで、凱風快晴(赤富士)、山下白雨、神奈川沖波裏等が傑作とされる。
初版は
1823年(文政6年)頃より作成が始まり、
1831年(天保2年)頃から
1835年(同4年)頃にかけて刊行されたと考えられている。版元は永寿堂西村屋与八。
発表当時の北斎は72歳、晩年期に入ったときの作品であが、西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた「ベロ藍(プルシャンブルー)」を用いて摺ったことも特色である。(写真参照)
波の伊八
初代武志伊八郎信由は、
1751(宝暦元)年に現在の千葉県鴨川市に生まれ、
1824(文政7)年に没した宮彫師。房総南部を中心に、神社や寺院の欄間の彫刻などのすぐれた作品を多く残した。
特に外房の荒海を象徴するかのような、「波」の浮き彫りが独得の作風とされ、《波の伊八》と称される。職人仲間では「関東に行ったら波を彫るな、彫ったら笑われる」と語られていたという。
伊八の作品には、波のみならず、龍の彫りも実に巧みで、房総を中心として多くの寺社に残っているとされる。
行元寺の客殿が作られたときに、欄間の作成を依頼されたが、伊八は岬で海を眺め、酒を飲んで毎日を送り寺の世話人を心配させた。ある日、伊八は馬に乗ったまま海に入り、視点を下げて横から波を観察していた。
行元寺に引き返すと欄間五枚「波裏の宝珠と月」を一気に彫り上げた。写実的・陰影法・遠近法といった近代手法駆使されていて、波がまさに崩れんとするその一瞬を見事に表現している。伊八が58歳の時のこと。
欄間のうち2枚は松竹梅の彫り物であり、後の3枚はいずれも躍動する大波を彫ったもの。うち2枚には大波の間に宝珠が浮き出た構図になっており、これが北斎に影響与えたといわれている。
仮説の考察
2枚の写真に見る構図には明らかな類似点ががあるが、北斎が伊八の彫刻《波に宝珠》を参考にして《神奈川沖波裏》を描いたと確かに証明できるであろうか?
伊八の生まれた9年後に北斎が生まれ、北斎が亡くなったのは伊八が亡くなった25年後、二人の時代はかなり重なっている。
行元寺客殿には、北斎と兄弟弟子である堤等髄が杉戸に描いた「土岐の鷹」の絵がある。等髄が行元寺で戸襖絵を描き、同時期に伊八が欄間の「波」を彫っていたのである。
一方、二人の師匠である堤等琳は行元寺本堂に《十六膳紳》を描いており、伊八の欄間の5年後に完成、その15年後に、70歳の北斎が行元寺を訪れて、伊八の波の欄間に出会ったのではないかと言われている。
エピローグ
今回この《仮説》を書くに当たって、年譜を書いてみた。又八郎(
-1716)、伊八(
1751-1824)、北斎(
1760-1849)、ゴッホ(
1853-1890)、モネ(
1840-1926)、パリ万博(
1867)、明治維新(
1868)、などなど。
房総の地の行元寺を舞台にして、又八郎の100年程あとに伊八が登場し、北斎の兄弟弟子である等髄が伊八と同時期にここで戸襖絵を描き、北斎と等髄の師匠である等琳もここに作品を残している。
伊八の彫刻が北斎の創作の原風景となり、北斎が西洋のゴッホやモネの印象派の絵画に影響を与え、《神奈川沖波裏》にインスパイヤーされて「ドビュッシー」が交響詩「海」を作曲し、西洋美術史としてはその後のア-ル・ヌーヴォにまで引き継がれていったと考えるとロマンを感じる。
私個人は、又八郎と伊八の龍の彫刻に興味を持った。伊八は房総に龍の彫刻をたくさん残しており、《龍の謂れとかたち》を集めている私には訪ねてみたいところが一挙に増えた。【生部
圭助】
【参考としたもの】
・行元寺で聞いた説明
・行元寺の栞
・いくつかのホームページ、その中でも特に、正覚坊(しょうかくぼう)氏のページ