隅田川テラスは新しい親水空間

【メルマガIDN編集後記 第225号 110901】

 JRの総武線に乗って隅田川を渡るときに、川の上流を見ると、両岸に遊歩道があり、左岸の堤防の壁がなまこ壁の仕上げになっており、右岸にも、遊歩道があり、堤防の壁にレリーフが飾られているのが目につく。一度、遊歩道を歩いてみたいと思っていた。
 2011年8月5日に、IDNのふれあい充電講演会のイベントで企画されたクルーズで隅田川を日の出桟橋から吾妻橋まで上った。両国橋をくぐり、総武線隅田川橋梁をくぐった先の右手のテラスにあるレリーフの中に龍らしきレリーフを見つけた。日を改めて隅田川テラスを訪れた。


隅田川テラスをクルーズの船上より見る


両国橋~蔵前橋間(約800Mの区間


手摺のレリーフ

相撲の決まり手が
川と遊歩道の間の
手摺におかれている


隅田川テラスのレリーフ 上流に向かって右岸


新版 浮繪両国喬夕涼花火見物之図
勝 春朗(北斎)画 版元 永壽堂(馬喰町二丁目)西村再販


東都 両国川開之図 歌川豊國画


隅田川テラスの龍のレリーフ 隅田川クルーズの船上より見る
上部はテラスへのアプローチの斜路の手摺

大きい写真こちらよりご覧ください


隅田川
 江戸時代以前の利根川は、現在の東京湾に流れ込んでおり、荒川や入間川は、利根川の支流をなしていた。この最下流部の呼名が隅田川だった。
 徳川家康は、関東平野の河川水系の大改修事業に着手し、利根川は、現在の千葉県銚子で太平洋に流れこむことになり(利根川東遷)、荒川は独立した水系となって東京湾に流れこむことになった。隅田川は、荒川本流の最下流部の呼名になった。

 江戸時代の中頃までは、隅田川は「浅草川」と呼ばれていた。荒川下流部は、武蔵の国と下総国との国境にあたり、武蔵側からの呼名が浅草川、下総側からの呼称が隅田川だった。
 江戸時代には、古典落語などにもあるように、吾妻橋周辺より下流は大川とも呼ばれていた。大川右岸、特に吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端と称していた。

 洪水を防ぐ為に、明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流は俗称であった《隅田川》に改称された。
 現在の隅田川は、荒川水系本流の下流部に位置する一支流として扱われ、荒川本流と分かれる北区岩淵の岩淵水門から下流を指している。
 全長23キロメートルの隅田川には、27の道路橋(首都高速道含む)が架けられている。

隅田川テラス
 戦後の高度成長期に入ると隅田川は徐々に汚染されはじめ、悪臭が漂うようになり、《隅田川の暗渠化》が構想されたこともあった。
 隅田川の治水は、洪水や高潮から周辺を守るために、鉄筋コンクリートの高い壁による高潮護岸整備が昭和50年までに完了し、この高潮護岸は《カミソリ堤防》と呼ばれた。堤防によって人と水辺が隔離される結果となってしまった。

 東京都は昭和55年から、安全性に加えて人が水辺に近づける親水性にも配慮した緩傾斜堤防事業に着手した。隅田川をはじめとする都内の河川を都市景観の一部とし、人と水辺の接点を探る試みが始まり、その代表的な例が 《桜橋》や《隅田川テラス》でる。

 隅田川テラスは、隅田川両岸に沿って整備された親水テラスの総称であり、治水上の高水敷にあたる部分をテラス化したものをいう。
 テラスは、舗装や緑化が施されることによって平時には憩いの場、散策路など、公園としての役割が与えられて、テラスのにぎわい創出と河川環境の回復を図った。
 平成18年2月に東京の水辺空間の向上に関する全体構想ができ、18年度に重点事業採択(水の都再生プロジェクト)がなされ、隅田川壁面ギャラリー整備工事が着手された。

レリーフ《新板 浮繪両国喬夕涼花火見物之図》
 隅田川テラスの防潮堤の壁面にはたくさんのレリーフが展示されており、テラスで憩う人を楽しませてくれる。
 北斎は、14歳で版木彫りの仕事につき、18歳(1778年)のとき人気浮世絵師の勝川春章に入門。《春》の一字を貰い《勝川春朗》の名で役者絵を発表する。
 北斎の転居は93回を上るとされ有名であるが、彼は生涯に30回と頻繁に改号していたという。北斎の号は主・副に分けられ、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号とされる。

 レリーフ《新板 浮繪両国喬夕涼花火見物之図》の左下には、以下の解説が書かれている。「夏の両国のにぎわいを描いたこの作品は、北斎が春朗と名乗っていた頃のもので、春朗期の浮世絵の佳作として知られる。画面斜めに両岸をとらえ、川面と空の広々とした空間を表出している。川面では船から花火があげられ、橋上には蟻ほどの大きさで多くの人出が描かれている。橋のたもとに目を転じると様々な小屋が並び、そぞろ歩く人が細かく描きこまれ、その賑わいが今にも聞こえるようである。」

 なお、絵の中の右側には《勝 春朗画 版元 永壽堂(馬喰町二丁目)西村再販》と書かれており、《勝川春朗》ではなく《勝 春朗》となっている。

隅田川テラスの龍のレリーフ
 龍のレリーフは、両国橋をくぐり、総武線隅田川橋梁をくぐった先の右手のテラスの防潮堤の壁面に飾られている。隅田川クルーズの船上からは、黒いレリーフが見え、龍らしいと思ってシャッターを切り、あとで写真を拡大して龍であることをと確認した。
 左側に龍のレリーフがあり、少し離れた右側に虎のレリーフがあり、いわゆる《龍虎》として対をなして配置されている。龍のレリーフの右下に制作者と思われるサイン(Ikumi Uehara)があるが、誰であるか解明できていない。

エピローグ
 親水空間の再創生としては、韓国の清渓川の例が有名である。清渓川はソウルの都心部を東西に流れ、漢江に合流する延長11kmの川。50年代に人口集中で汚染が進み、川はふさがれ暗渠になり、70年代にはその上に高速道路が造られた。
 高架の高速道路が老朽化して修復に多大な費用と手間がかかるので撤去する案が浮上し、延長6kmの高速道路が解体され、河川の復元と遊歩道などの整備が05年に完成した。
 明るくなった川べりに多くの人が集まるようになって、観光拠点となり、周辺の地価や家賃も上がっており投資効果もあったとの評価を得ている。
 2003年11月にソウルへ行った時にこのプロジェクトのPRセンターに寄り、プロジェクトの概要の説明を受け、工事中の現場を見た。

 2008年には、プラハのヴルタヴァ川(独語ではモルダウ川)で小さな遊覧船に乗り、川面よりカレル橋や両岸の景色を見た。2010年には、アムステルダムの運河ツアーで、マヘレの跳ね橋やレンガ造りの七つの橋を見、アムステルダムの街並みを水面より見た。

 隅田川クルーズは初めての体験だったが、勝鬨橋から聖路加病院に至る左岸の遊歩道を含む親水空間は水上から見ても素晴らしいものである。
 両国橋をくぐると、左岸のなまこ壁とテラスから水面へ、さらに右岸のテラスと堤防のレリーフのある壁につながり、一体となった親水空間を構成している。川の上流に見えるスカイツリーも加わって、新しい東京の都市空間が生まれている。