龍の謂れとかたち
恵林寺禅定閣の龍の彫刻
恵林寺
恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷(旧塩山市)にある寺院
山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院
庭園は国の名勝に指定されている
鎌倉時代の元徳2年(1330)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し
五山派の夢窓疎石を招き開山
甲斐における臨済宗の中心となる
応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる
天文10年(1541)には武田晴信(信玄)が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興
永禄7年(1564)には武田氏により寺領が寄進され、美濃崇福寺から快川紹喜を招く
天正4年(1576)に、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた
天正10年(1582)、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため
織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあった
この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で
安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し
と偈を発して快川紹喜は焼死したといわれる
家康が再建した後、将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保が
信玄の法要を行うとともに、寺内の修復を図っている
後に、柳沢の子である吉里が柳沢吉保夫妻の墓を永慶寺より恵林寺に改葬している
【恵林寺の栞などより】
黒門
四脚門(赤門)にある乾徳山(けんとくさん)の扁額
四脚門(赤門) 国重要文化財 信長により焼かれた後家康が再建
三門(県文化財) 快川和尚を始め約100人の僧侶が火定を遂げた
方丈(禅定閣)の入口の扉に龍と虎の彫刻
恵林寺の禅定閣のある方丈
方丈(禅定閣)の扁額
禅定閣の入口正面 両側の扉に彫刻がある
左側の扉 龍と虎の彫刻
龍の詳細
右側の扉 虎の彫刻
恵林寺の紅葉 2012
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