謂れとかたち
成田山新勝寺 仁王門の提燈の底の龍の彫刻

成田山新勝寺
正式名称は成田山明王院新勝寺 真言宗智山派大本山
天慶三年(940)真言僧寛朝大僧正によって開山された
寛朝大僧正は朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受け
弘法大師が敬刻開眼した不動尊像を奉持し難波津の港より海路を下総に向かう
尾垂(おだれ)ヶ浜(千葉県匝嵯郡光町)に上陸し陸路を成田の地に至る
乱平定のため平和祈願の護摩を奉修した

大任を果たした大僧正は再びご尊像を奉じて都へ帰ろうとした
ところが尊像を運ぶ輿が磐石のごとく微動だにしない
《我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん》との霊告が響いた
寛朝大僧正は尊像を堂宇に祀って都へ帰って朝廷に報告
天皇は深く感動し、諸堂伽藍を整え《成田山新勝寺》の寺号を授与
東国鎮護の霊場として開山した

仁王門
文政13年(1830)建立、天保2年(1831)再建
参道から大本堂へ至る急な階段の途中に建つ 入母屋造の八脚門
左右に密迹(みっしゃく)金剛、那羅延金剛、裏仏には広目天、多門天が奉安される
境内入り口にあって伽藍守護の役目を担う
国指定の重要文化財

門に隣接して仁王池がある
放生池(ほうじょうち)として生き物の生命をいとおしむ《不殺生》を教えている

【成田山のしおり等より要約】


仁王門 正面

仁王門の提燈
成田山の仁王門は何回もくぐったことがあるのに、提燈の底の龍の彫刻には気がつかなかった
浅草寺の提燈の底に龍の彫刻があるのを知ってから、もしやと思って見たら、あった
昭和43年4月大本堂落慶記念に東京魚がしより奉献されたもの
重量800キロ


仁王門の提燈 魚がし


提燈の底


龍の彫刻


龍の頭部の拡大

提燈余話 高橋提燈(京都市)
同社の創業は1730年、扇子問屋を開業
季節に左右される扇子から、一年中商売が出来る提燈の製造販売に転業
これは明治になってから、9代目の佐助のとき
戦時下に神社からの提燈の発注が激減、灯火管制で家庭の需要も打撃を受ける
戦後提燈製造業者の廃業ラッシュ
提燈需要は回復しないものの、営業地域を全国に拡大
提燈の需要は頭打ちだが、受注はこの5年間同水準を保っている
従来の注文先が廃業したので、変わりに同じものを作ってほしい
全国の遠隔地からからインターネットで注文が来る

同社は20人の職人を抱え、毎年万単位の大小の提燈を製造している
目下の経営課題は、職人の確保と技術の伝承
職人は一人前になるのに4~5年要するとのこと
【日経09/4/10《2000年企業》より要約】

高橋提燈のホームページで見ると
浅草寺の4つの提燈(雷門・宝蔵門・本堂・二天門)は高橋提燈で作ったもの
電話で問い合わせたところ、成田山新勝寺仁王門の提燈は同社のものではないとのこと
ホームページでは、提燈の種類や仕様の見方
和紙提灯日本一は諏訪神社間濱組で、サイズは18尺5寸(5.6M×10M)
雷門の提燈は、11尺(3.3M)等知ることが出来る

浅草寺の提燈についてはこちらをご覧ください
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